知的武装の戦略ーーーその1
●「ロジカルに考え、行動する」とは?
「ロジカル」であることと「成功する」ことの関係は、
1)「ロジカル」で「成功する」ことが望ましいが、絶対ではない。
2)「ロジカル」だが「成功しない」こともあるし、
3)「ロジカル」ではないが、「成功する」こともある。
4)「ロジカル」ではなく、「失敗」するのは論外で、選択肢にはない。
人生における重要な問題の多くには「ロジカルな正解」がない。
これは「ロジカルに考えるのは無駄だ」ということを意味するだろうか?
この点については、それなりの意見もあるが、ここでは述べない。
そもそもこういった疑問を持つ時点で、当該者の生き方には大きな疑問符がつく。
そういった質問に対して、正直に言えば、取り合う気にならないのである。
それば生き方の問題だからだ。自分の生き方を他人に聞くようでは見込みは無い。
従って、答えは「自分で考えろ」でしかない。
ただし、あらゆる問題について、前提を疑うことは間違いではないので、「そもそも、ロジカルでなければいけない理由はあるのか?」という疑問を抱くこと自体は、大いに結構。見込みはある。
が、「正解がない」問題にどう対処すべきか?あるいは、価値観そのものを問う問題にどう対処すべきか、という点に辿りついた後の処し方で、大きな差が出ることになる。
2010年の全英オープンにおける石川遼の発言に観る「戦略」
2010年のゴルフ全英オープンは、ゴルフの聖地セントアンドリュースで行われた。
この大会の最大の焦点は、「タイガーウッズの復活」であった。セントアンドリュースにおいて、タイガーは2連勝しており、3連勝のみならず、セントアンドリュースを3回制したゴルファーも過去にいないのであるから、当然であった。残念ながら、タイガーの3連覇はならなかったが。
日本のゴルフ・ファンにとって、もう一つの注目は、若干18歳の石川遼が、ゴルフの聖地でどのようなプレーをするのか、であった。石川は2日目を終えトータルー4で、ラクラクを予選を通過。最終日の上位争いの一角に食い込むか、と期待されたが、最終的にはー2で29位タイという成績で終わった。
しかし、成績以上のプレー、あるいは戦略を見せた石川であった。第一に、「メジャートーナメントで4日間のプレーをする」とう戦略である。同年の全米オープンで予選を2位タイという驚異的な成績で通過した石川であったが、後半は急に失速。後に「走りながらゴルフをしているような感じで心臓がバクバクした」とその状態を表した。メジャーで4日間戦うための資源配分が必要であることを学んだのであり、それは2ヶ月後の全英で見事に果たした。4日間、ショットがほとんどブレなかったのである。
一方、ショットの良さに引き換え、パターの悪さが目立ち、トータルとしてメジャー大会でトップを争うには力量不足であることを露呈した。この点に関しては、4日間のプレー終了後に自らが認めているが、「パターなどのショートゲームは、まだ次の課題として未着手であるので、それは気にならなかった」と言ったのである。それは負け惜しみなどではなかったと思う。と言うのも、パターがあれだけ悪ければ、ショットにも影響するはずだが、ついにショットは4日間を通してブレナカッタかtらである。石川は「やるべき課題間に優先順位をつける」つまり、「やらないことを決めていた」のである。これこそが戦略に他ならない。石川が世界のトップに伍して戦う日は、案外近いのではないか、と期待させる四日間であった。
スポーツマンシップを「学ぶ」ということ
スポーツマンシップという知識を得たら、それを知った各個人の行動に反映されなければならない。それは原理である以上、全てに反映されるものである。それを否定するのであれば、逆に問おう。その知識は何のために学ぶのか、と。スポーツマンシップの価値に興味が無ければ、学ぼうとはしなかったはずである。「スポーツマンシップは、それぞれが個人として判断すべきであり、一義的に定義し、それを押しつけるのは間違いである。」と言った、賢しらな意見を述べるものがいる。この意見は2つの点から言って誤りである。
第一に、定義の一義性と、行動のそれとを混同している。原理とは、一義的に行動を規定するものではない。「人を愛せよ」という原理によって、行動は一つにはならない。「夫婦は男女が愛し合い、生活する契約関係である」という原理があるが、夫婦のあり方は千差万別である。原理とは」そういうものである。「嘘をつくことはいけない」という原理は誰もが知っていることである。この原理と、「嘘をつく方がいい場合もある」と認めることは何ら矛盾しないのである。(子供はこの加減が分からないので、原理のみを教えればいい。逆に、この加減が分からないのであれば、子供であると評価されても文句は言えまい。)
第二の誤りは、「スポーツマンシップの定義は、個々人ですべきであり、統一すべきではない」という主張は、「定義」の意味が分かっていないのみならず、自分の発言の無意味性に気づいていない点にある。「統一しない定義」とは、何を指しているのだろうか?言語矛盾である。また、「スポーツマンシップの定義が個々人別々でいい」のであれば、その意見表明自体が無意味である。「スポーツマンシップの原理的な定義」を聞いたら、心の中で「ふーん。でも私は違う」と思っていればいい。何も不同意の表明は不要ではないか。不同意の表明自体が、自分の意見への同意を求める行為ではないだろうか。
以上で、不毛な意見表明者の不毛さに関する証明は終了するが、こういう非生産的な愚論を述べるものには、スポーツマンシップを知識として学ぶための当事者能力が備わっていない、という点を最後に明らかにしておこう。
これからの正義
「これからの正義についての話」という本を読んだ。
ハーバードで最も人気の高い政治哲学の講義録がベースになっている。
著者のマイケル・サンデル教授の問題意識は、
「現代における『市場/功利主義』の侵食
あるいは「市場と公共性のトレードオフ問題」
当方の爾来の問題意識との共通点が多く、楽しめ、かつ励まされた。
サンデル教授が「政治」で解決したい/すべきと考えていることを
当方は「スポーツ(マンシップ)」で解決すべく取り組んでいる
と言っていいかと思う。
現実的に考えるならば、
今日の日本では当方の戦略の方がより現実的かた効果的だという確信がある。。
メディアのアカウンタビリティー(総括)
以前書いたように、
6月12日(土)に広瀬は「新・週刊フジテレビ批評」に出演。
「Wカップのテレビ報道」に関して語った。
その中で「14日の初戦、対カメルーン戦に勝ったら、
恐らく、岡田ジャパンに対するメディアの評価は激変するだろう」
とコメント。その後、メディアの“手のひら返し”は現実になった。
そこで、
フジテレビから7月10日の同番組でこの状況について語るよう依頼があり、
「メディアのアカウンタビリティー(説明責任)と私たちのメディアリテラシー」
というテーマで語った。
多摩大学の広瀬ゼミでは、メディアの論調の推移を数値化し、グラフ化。
(スポーツ総研のHPにアップしてある。)
2010年になってから対パラグアイ戦まで、
練習試合のジンバブエ戦を除いて12回の国際ゲーをした。
その翌日の新聞の論調を、
「激賞=2、評価=1、可不可なし=0、辛口=-1、酷評=-2」
の5段階で、8つのメディアにについて8名が主観的に分析し、数値化。
13回の論評をグラフ上にプロットし、線でつなげたのがこのグラフである。
「赤はスポーツ紙の平均、青が一般紙、黒は雑誌(翌週)」。
できあがったグラフを番組内で表示した。
(番組ではトレンドを明らかにするため、雑誌は削除。)
結果として
1)「カメルーン戦の勝利」を境に、論調が激変。(つまり“手のひら返し”)
2)メディア間に差がなかった。(大衆迎合的だとも考えられる。)
今や岡田ジャパンはヒーローであり、メディア各社は競って
「岡ちゃんゴメンネ」コール。
しかしながら、メディアは謝罪の必要があるのだろうか?
事前に低い評価を得たチーム戦術およびメンバーは、最終的に変わっている以上、
メディアの評価は正しかったと言えなくもない。
(指摘内容に誤りは多かったし、
批判の仕方にリスペクトを欠いて、
単に扇情的に書いていたメディアが無かったとは言えないが、
それはこの際触れない。なぜなら、触れても治らないから。
ま、不治の病だな。)
問題は、事前の酷評も、事後の絶賛・激賞も、
情緒的な判断に流れていなかったか、という点である。
プロであるなら「専門性」と「客観性」が求められるはずである。
そして、事後に「何が間違っていたのか」「それは何が原因か」
という点について検証すべきであろう。
それなしで、「旗色が悪いから誤っちゃえ」的な対応は不毛であり、
4年後に同じことが繰り返されると想像される。
蛇足であるが、
以上について、最も正確に理解しているのは、一方の当事者の岡田氏であろう。
何しろ、97年末の「ジョホールバルの歓喜」で一夜にして英雄となったが、
その直前は各紙が「岡田では本大会に行けない」のであったからだ。
となると、今回の騒動も、
岡田氏にとっては単なるデ・ジャ・ブでしかなかったのかもしれない。

