連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.09 魔がさして「東大をめざします!」 2013/0731

 好事魔多し、である。年度の最後に全校マラソン大会があった。学校の外のアスファルトの一般道路を10km走る。サッカー部の1年生は50位以内に入らないといけない。50位以内なら楽勝だ、と思った。上位10名のうち、半分はサッカー部だった。(中村君は常に上位3位以内だった。)ところが、筆者は扁平足で、土のグランドでの練習は大丈夫だったが、固いアスファルト道路はだめだった。マラソンで右足裏の内側が腱鞘炎になり、練習を休むはめになった。

 焦った。完治しないうちに練習に参加し、反対側の左足の内側が腱鞘炎になり、練習ができなくなった。更に焦った。このままでは2年生のうちに仲間に追いつけない。3年生でレギュラー、とは行かないまでも、せめて補欠でベンチには入りたい。そして、また完治しないうちに練習再開。今度は右足の外側が腱鞘炎に。そんな事を繰り返し、腰まで痛めてしまった。2年生の時は1年のうちの半分以上、ボールが蹴れなかった。観念した。サッカーで頂上は目指せない、と。いつものように。決断は早かった。監督の長池先生に退部届けを出しにいったのは、2年生の終わり頃だった。

 長池先生は快く受理してくれたが、「で、何をやるの?」と。言外に「藤枝東のサッカーで全国制覇を目指すという大きな目標に替わる“何か”」を求めていた。「はい、東大の文Ⅰを目指します!」「何?そうか、分かった。頑張れ!」。

 言った瞬間、まずい!と思った。」魔が指した一瞬だった。事前に考えていたわけではない。口が滑ったのだ。「藤枝東高校のサッカー部にいた者が、あろうことか東大の、しかも文Ⅰを目指す」というニュースは翌日には校内を駆け巡った。「広瀬らしいな。頑張れ!」と何人の友人から言われたことか。(「無鉄砲にも程がある」と何人の友人が思ったことか。)もう、後には引けない。人生2度目の無謀な挑戦が始まった。

 幸いにして、一郎、ではなく一浪して無謀な挑戦の勝者となることができた。(「二浪までは許して欲しい。ダメだったら大学進学を諦め、六代目円生か、5代目小さんに弟子入りして、落語家を目指す」と両親に話して、了承を得ていた。)勝因の第一は、子供のころからの読書の蓄積。第二は、サッカー部の練習で培った「集中力」であったと思う。(集中の持続力は浪人開始時に3分弱だったが、一年後には10倍以上まで伸びた。集中力もトレーニングで伸ばすことが可能だ。)

 

日時: 2013.07.31|

連載No.08 常勝軍団「藤枝東高校サッカー部」入部 2013/7/30

 私が入学した当時の藤枝東高校サッカー部は、とにかく強かった。春の合宿中に主力の3年生が二人いなかった。全日本のユースに選ばれて合宿にいっていたのだ。一人は後に日立に入り、日本リーグで得点王になった碓井さん。柏レイソルの監督もやられた方だ。もう一人は、大畑さん。釜本さんのいるヤンマーに入ってウィングとして活躍した。お二人とも別格にうまかった。同じ部にいたが、既にスターだった。(それにしても、「後に日本代表にもなる人達と同じクラブで毎日一緒に練習した」というのは、我ながら素晴らしい経験だったと思う。)

 スターは同期にもいた。中村一義君。第1回の全国中学校サッカー選手権の得点王である。1年生からレギュラーだった。とにかく運動神経の塊のような男で、中学生の時に既に100m11秒台で走っていた。しかも、長距離も早かった。同じクラスで、体育の時に、走り幅跳びをするのを横から見たら、人の頭の上で飛んでいた。メキシコ五輪で人類初めて8mを越えたビーモンのようだった。身長が170cmそこそこしかないのに、大柄なディフェンスにヘディングで勝って得点していた。ドリブルの名手で、夏の合宿で日本リーグの日立と練習試合をした際、川上というディフェンダーを手玉にとっていた。川上選手は日本代表の選手だった。そんな選手と同じグランドで毎日そのプレーを間近に見、一緒に練習できたのだから、面白くないはずがない。

 私が1年生の時、藤枝東高校は徳島のインター杯で優勝した。決勝の相手は広島県立工業高校だったが、前半で3−0とし、後半は遊んでいたようなものだった。強すぎた。当然、正月の全国選手権に出場し、連覇するものと思われていた。だが、インター杯優勝者のシードは廃止されており、静岡県の予選は、なぜかベスト4となってからリーグ戦形式が採用された。そして、わが母校は清水商業と引き分けたものの、最終戦で藤枝北高が清水商業に6−0で負けない限り、得失点差で藤枝東が代表となるはずだった。そして、北高が0−6で負けた!この年度、公式戦無敗のチームが全国大会への出場を果たせなかったのだ。勝負の恐ろしさを知った。県内予選の最終リーグ戦形式は、一回限りで廃止となった。

 チームは強かったが、私は相変わらず、その中で一番下手だった。が、足は早かったので、何とか対応していた。もっとも、下手だったので、逆に一番伸び代は大きかった。個人練習で左足のキックを集中して鍛えた結果、1年生の冬休みの合宿では、練習を見にきたOBから、「お前は左利きか?」と尋ねられた。左足の方が強いキックができるようになっていたのだ。順風満帆で、2年生の終わりには仲間に何とか追いつく、という目標は実現できそうだった。

 

日時: 2013.07.31|

連載No.07  付属中学から藤枝東に 2013/07/29

 受験で選抜された者が集まる付属中学校では、さすがに勉強しないでも「できる子」とはならなかった。上位60名くらいは静岡高校に行けるが、私の成績はその枠からほんの少し漏れていた。しかも静岡高校は学区外だったから、冒険はきつく止められた。自宅のある焼津の学区で一番の高校は藤枝東高校だった。言うまでもない、サッカーの超名門である。付属中学では確かにサッカー部に所属していたが、静岡と藤枝では全くレベルが違った。

 中学校3年生の時に、全国中学校サッカー大会の第1回が開催され、静岡県代表の藤枝市立西益津中学校が全国を制覇した。名波の母校である。その西益津は、実は静岡県の決勝で岡部中学に負けている。岡部中学はゴンちゃんの母校だ。登録が間に合わず、県協会は県の代表として西益津中学を登録していた。その2校から全国屈指のそうそうたるメンバーが藤枝東高校のサッカー部に入部する。(因に、岡部の玉露茶は、茶商では現在、宇治を抜いて全国一の評価を得ている。)

 当時の全国高校サッカー選手権は大阪で開催されていた。私が中学3年生の正月の大会では、決勝が「浜名vs藤枝東」になった。当時は夏のインター杯に優勝したチームはシードされ、正月の全国大会の出場権を得ていた。浜名がインター杯を制しており、静岡県同士が決勝まであたらないようにシードされていた。そして全国大会の決勝が、静岡県同士という前代未聞の対戦カードとなったのだ。TVで決勝を観て、優勝した藤枝東高校のサッカーに魅了された。「ここでサッカーをやりたい!」客観的には無謀の極みであったろう。しかし、失敗しても失うものは無い、と思った。全く怖じける気はなかった。人生最初の無謀な試みだった。(どうも「怖じ気」という能力が欠けているようだ。それは、時として「慎重さ」を欠き、「無謀」な行動につながる。ま、人生では一つ得れば、1つ失うものだ。「セ・ラヴィ」)

 高校入試の際に提出する書類に「入部志望先」という欄があった。迷わずに「サッカー部」と記入。合格通知と同時に、「春の合宿」に参加するよう案内状が来た。入学式の前に、サッカー部への入部希望者は合宿に参加する。ただし、合宿所に泊まらず、毎日日帰りで。初日は自己紹介とボール拾い位だったと思う。上級生に、「広瀬、坊主にしてこい」と言われた。自分以外は既に全員坊主頭だった。帰りに床屋で、生まれて初めて頭を刈って五分刈りにした。「これからやるぞ!」と言う気合いが入って、新鮮な気分だった。

 合宿の2日目には、基本練習に参加した。新入部員の中では、左足のキックができないのは私だけだった。自分以外は全員が、「蹴る、止める」の基本技術がしっかりできていた。

 自宅からの登下校は7kmを自転車で通った。2日目の夕方、自転車で帰宅する際、慣れない道で近道をしようと川の土手沿いに走っていたら、行き止まりだった。元来た道に戻ろうと自転車を降りた瞬間に、全身が痙攣を起こした。付属中学のサッカー部には、コーチも監督もおらず、高校になって生まれて初めてちゃんとした練習をしたので、これまで使ったことの無い筋肉を使ったせいだったろう。川の土手に仰向けにひっくり返り、痙攣が収まるまで30分ほどだったろうか、星を見上げていた。壮快な疲労だった。

 藤枝東高校のサッカー部には、多くのファンがいた。平日でも練習を見に来る一般市民は少なくなかった。練習グランドには客席があり、300人前後は観戦可能だし、観客席の中央には屋根付きのスペースまであった。そんな高校は日本中のどこにもなかったろう。3日目にボール拾いをしていた際に、一般人のファンに声をかけられた。「おい、広瀬、静岡の付属から来たんだってな。頑張れよ。」藤枝東高校のサッカー部の新入生がどこの中学から来たのか、市民は知っているのだ。そんな高校は、間違いなく、日本中のどこにもなかったろう。

 

日時: 2013.07.29|

連載No.06  黒い羊 2013/07/28

 幼稚園3つ、小学校3つ、小学校と関係のない中学校と、数えたら7つのコミュニティー(共同体)を生まれてから12年間で経験したことになる。同じ中学から高校の同窓になったのは3名だったから、高校も入れると15年間で8つ目だから、中々の数だろう。

 1つの共同体の中で過ごすと、自分を客観的に見つめる機会がなかなか得られない。この点で私は転校する度に、それまでの学校(という共同体)における自分の存在を反省し、次の学校では最初から仕切り直すことができた。例えば、「これまでは悪童だったが、今回は優等生で行く」などのキャラの変更ができた。そして、それは同時に自分を客観的に問い直す行為を伴う。中学校に入学するまでに、私は十分すぎるほどの「自己客観化」のトレーニングを積むことができていた。自己客観化こそ、戦略思考の基礎だ。戦略とは、目標の成果を定義し、達成するまでのシナリオを立案し、実行する方法のことだ。現在の自分を客観的に把握することなしに、正しい目標設定も、正しいシナリオも定めることはできない。(戦略思考について、ご興味のある方は拙著「10年後、仕事で差がつく戦略思考」をご参照頂きたい。)

 もっとも、「客観的に見る能力」は、共同体内部で十分に居心地がいいメンバーにとっては脅威となる。共同体は基本的に「現状維持を肯定する集団」であるから、そもそも「現状への疑義」を少しでも感じさせる外界の存在、つまりよそ者は排斥され、共同体の維持に努める。英語で「Black Sheep」という表現がある。「黒い羊」は普通の白い羊の群れでは「浮く存在」となる。

 考えてみれば、私は生まれ故郷の三島を出てから常に他所者、つまり黒い羊であった。それは、静岡を出て大学に入ってもそうだったし、会社に入ってもそうだったし、今に至るも変っていない。客観的な見方ができる能力は、「主観的な論理の共同体」内では、常に浮く存在にならざるを得ないようだ。ある意味では孤独だが、それも仕方が無いと思っている。何かを得れば、何かを失う。それが人生というもの、「セ、ラヴィ」だと割り切っている。

 

日時: 2013.07.28|

連載 No.05 「焼津に引越す」     2013/07/26

 父、秀礼は気位が高く、商売には向いていなかった。(その血は息子に受け継がれている。)そのために、職を転々とした。昭和38年に、箱根の麓のバイパス沿線に友人が開いたドライブインの支配人となった。東京オリンピックの前の年だったので、父は「オリンピア」と名付けた。「オリンピックだと法律に引っかかるけど、オリンピアは場所の名前だからセーフだった」と、生前の父はよく自慢していた。

 だが、客商売は父秀礼に最も向かないビジネスだった。当然長続きするはずがない。次は英語の百科事典のセールスマンになった。当時、一家に百科事典のセットが1つあるのは常識だったが、父がセールスしていたのは1セット30万円もするアメリカーナ百科事典だった。商売を変えたのを機に、家も沼津に引っ越した。沼津東高校の裏だった。息子の一郎を自分の後輩にしようという意図だった。沼津第四小学校に転校して4年生に編入された。

 秀礼がセールスマンに向いている訳が無い。沼津は最短の2年で引越すことになった。次は焼津だった。父の一番下の妹の経子叔母が里子に出された家が焼津タクシーを経営していた松永さんだった。タクシーに入れるプロパンガスの充填所を別会社にして、「焼津ガス」というプロパンガスの会社にし、父を専務で迎えてくれた。焼津市立東益津小学校の6年生に編入された。小学校も3つ目だった。

 実は私には小児ぜんそくという持病があり、小学校はよく休んだ。5年生の時の体質改善が効いたのか、それとも焼津という土地があったのか、あるいは小児ではなくなったからか、焼津に移ってからは喘息が収まった。それまでは運動会や遠足は半分くらい、喘息のために欠席している。足は速く運動能力は高かったが、病弱な体質だった。母の実家に行くと必ずと言っていいほど、風邪で寝込んだ。大学になってサッカーの試合で頭を打、救急車で病院に運び込まれたことがある。その時、ついでにアレルギーの検査をし、「猫の毛、杉花粉、家埃、家ダニ」にアレルギー反応を起こす事が判明した。祖母の家に同居していた従姉妹が猫好きで、常に複数の猫を飼っていた。

 よく寝込んだおかげで、本をよく読むようになった。読書量のおかげで、勉強らしい勉強をしなくても、小学校の成績はどこでも良かった。そして、中学校は静大付属静岡中学に合格した。東益津小学校創設以来2人目の快挙だと言われた。(我が妹が3人目だった。)

 

日時: 2013.07.27|