連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.07  付属中学から藤枝東に 2013/07/29

 受験で選抜された者が集まる付属中学校では、さすがに勉強しないでも「できる子」とはならなかった。上位60名くらいは静岡高校に行けるが、私の成績はその枠からほんの少し漏れていた。しかも静岡高校は学区外だったから、冒険はきつく止められた。自宅のある焼津の学区で一番の高校は藤枝東高校だった。言うまでもない、サッカーの超名門である。付属中学では確かにサッカー部に所属していたが、静岡と藤枝では全くレベルが違った。

 中学校3年生の時に、全国中学校サッカー大会の第1回が開催され、静岡県代表の藤枝市立西益津中学校が全国を制覇した。名波の母校である。その西益津は、実は静岡県の決勝で岡部中学に負けている。岡部中学はゴンちゃんの母校だ。登録が間に合わず、県協会は県の代表として西益津中学を登録していた。その2校から全国屈指のそうそうたるメンバーが藤枝東高校のサッカー部に入部する。(因に、岡部の玉露茶は、茶商では現在、宇治を抜いて全国一の評価を得ている。)

 当時の全国高校サッカー選手権は大阪で開催されていた。私が中学3年生の正月の大会では、決勝が「浜名vs藤枝東」になった。当時は夏のインター杯に優勝したチームはシードされ、正月の全国大会の出場権を得ていた。浜名がインター杯を制しており、静岡県同士が決勝まであたらないようにシードされていた。そして全国大会の決勝が、静岡県同士という前代未聞の対戦カードとなったのだ。TVで決勝を観て、優勝した藤枝東高校のサッカーに魅了された。「ここでサッカーをやりたい!」客観的には無謀の極みであったろう。しかし、失敗しても失うものは無い、と思った。全く怖じける気はなかった。人生最初の無謀な試みだった。(どうも「怖じ気」という能力が欠けているようだ。それは、時として「慎重さ」を欠き、「無謀」な行動につながる。ま、人生では一つ得れば、1つ失うものだ。「セ・ラヴィ」)

 高校入試の際に提出する書類に「入部志望先」という欄があった。迷わずに「サッカー部」と記入。合格通知と同時に、「春の合宿」に参加するよう案内状が来た。入学式の前に、サッカー部への入部希望者は合宿に参加する。ただし、合宿所に泊まらず、毎日日帰りで。初日は自己紹介とボール拾い位だったと思う。上級生に、「広瀬、坊主にしてこい」と言われた。自分以外は既に全員坊主頭だった。帰りに床屋で、生まれて初めて頭を刈って五分刈りにした。「これからやるぞ!」と言う気合いが入って、新鮮な気分だった。

 合宿の2日目には、基本練習に参加した。新入部員の中では、左足のキックができないのは私だけだった。自分以外は全員が、「蹴る、止める」の基本技術がしっかりできていた。

 自宅からの登下校は7kmを自転車で通った。2日目の夕方、自転車で帰宅する際、慣れない道で近道をしようと川の土手沿いに走っていたら、行き止まりだった。元来た道に戻ろうと自転車を降りた瞬間に、全身が痙攣を起こした。付属中学のサッカー部には、コーチも監督もおらず、高校になって生まれて初めてちゃんとした練習をしたので、これまで使ったことの無い筋肉を使ったせいだったろう。川の土手に仰向けにひっくり返り、痙攣が収まるまで30分ほどだったろうか、星を見上げていた。壮快な疲労だった。

 藤枝東高校のサッカー部には、多くのファンがいた。平日でも練習を見に来る一般市民は少なくなかった。練習グランドには客席があり、300人前後は観戦可能だし、観客席の中央には屋根付きのスペースまであった。そんな高校は日本中のどこにもなかったろう。3日目にボール拾いをしていた際に、一般人のファンに声をかけられた。「おい、広瀬、静岡の付属から来たんだってな。頑張れよ。」藤枝東高校のサッカー部の新入生がどこの中学から来たのか、市民は知っているのだ。そんな高校は、間違いなく、日本中のどこにもなかったろう。

 

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日時: 2013.07.29|