連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

No.3 数奇な半生  ●祖父「広瀬潤平—法名「法潤」

 私、広瀬一郎は、昭和30年9月16日に静岡県三島市に生まれた。当時は高台と呼ばれた地区だったが、今は町名が変っている。三島駅から伊豆急行で一つ目の広小路という駅から徒歩で5分くらいの住宅地である。父は秀礼(ひでのり)、母は淳子(あつこ)。一郎は広瀬家の3代目の跡取りだ。

 広瀬家は祖父の潤平が三島で起こした家だ。潤平は、江戸幕府の旗本高山忠兵衛の九男として生まれた。(兄弟の中の一人が大阪という都市の基礎を作った大阪市長の関一(はじめ)の母親だ。中之島公園には今も関一の銅像が建っている。「当時、日本で一番給料が高い公務員だった」というのが関一の自慢の一つだったらしい。我が父は関の従兄弟になる。)

 潤平は幼いころから秀才の誉れが高く、昌平校に入学した。ところが明治維新になり、旗本は全員解雇となった。潤平は生きるために酪農を志し、札幌農学校に入学。内村鑑三の2期か3期下の学年だったようだ。卒業後、上野下谷で牧場を営んでいた和田家に婿養子となる。和田家の長女がずいぶんな器量良しで、どうも潤平が懸想をしたらしい。(面食いは広瀬家の遺伝だろうか。)

 和田牧場と言えば、日本の低温殺菌牛乳の開祖として知られている。潤平は、アメリカ合衆国のミルウオーキーに2度渡り、ホルスタインを日本に連れてきた。この辺りのいきさつは、「東京牛乳物語」(新潮社刊)に詳しく描かれている。

 ところが何を思ったのか、長女に婿養子をとり、跡目を相続させ、自分は出家してしまう。日蓮宗で法名を法潤と称した。出家後、伊豆七島の新島に籠もり、来る日も来る日も読経に暮れていた。そして得た結論は、「日本が西欧列強に伍するためには、体格を改善する必要がある。そのためには酪農を振興すべし」。(立派な右翼だ。)

 還俗して広瀬という家を起こし、現在の三島駅の北側に実験農場を開いた。ここでは酪農だけではなく、社会改革のための私塾を開いていたようだ。(教師も家系的遺伝か。)伊東に一碧湖という湖があるが、あの辺りは広瀬農場の牛の放牧場だったらしい。今は別荘地になっている。潤平は再婚し、50歳にして広瀬家に長子が誕生し、秀礼(ひでのり)t。つまり我が父である。大正14年であった。この年に大正天皇が崩御し、年末の1ヶ月が昭元年なった。

 

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日時: 2013.07.24|