連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

No.4 数奇な半生ー父「秀礼(ひでのり)」と母「淳子(あつこ)」2013/07/25

 父が15歳の時、両親を1年で失う。両者ともガンによる病死だった。旧制沼津中学(現在の沼津東高校)の3年生の時のこと。翌年の昭和16年に太平洋戦争が始まった。沼中を卒業した後、両親がおらず、戦争が始まっており、しかも3人の妹を食べさせなければならず、大学進学を断念し家業に専念するが、何せ戦争中でもあり、うまく行かず牧場をたたみ、18歳で代用教員となる。

 19歳の時に、応召年齢が19歳に下げられ、甲種合格で陸軍に入隊。広瀬二等兵は駿河大隊に配属される。昭和20年になり、戦局がいよいよ悪くなり、敗戦濃厚となった昭和20年に、部隊は沖縄に派遣されることになった。その直前に小隊長が小隊長付きの広瀬二等兵と二人で転属された。(「恐らく沖縄派兵のコトを知っており、小隊長はオレを助けたんだよ」と生前の父は語っていた。)部隊は沖縄に辿りつくことができず、全員が海の藻くずとなった。父は英霊に成り損ねた。

 終戦後、三島に戻った父に更に過酷な運命が待ち受けていた。GHQの「農地解放令」を盾にして、各地で地主が土地の略奪にあっていた。広瀬家も例外でなく、牧場だった土地は取り上げられた。世事に疎い若者には、うまい逃げ道を探る術もなかったのだろう。応召時に幼い妹達を里子に出していたので、とりあえず自分が食えればいい。三島合同タクシーの運転手という職にありついた。秀礼は「これからは英語だ」と考え、独学で英語を習得。(通訳ができるタクシー運転手が重宝されたのは想像に難くない。)タクシーの運ちゃんの時に、三島高等女学校(現在の三島北高校)卒の杉山淳子(あつこ)と見合いをして結婚。昭和30年に長子が誕生し、一郎と名付けた。

 昭和30年代は、日本全体が貧しかったが、「働けば、明日は今日よりも豊かになる」という希望に溢れていた。(「三丁目の夕陽」の世界だ。)私の幼い頃は、自家用車はまだ珍しく、タクシーの運ちゃんの父が車を通勤に使っていたので、家には常にクルマが停めてあった。だから、「うちはお金持ちなんじゃないか?」と錯覚していた。一郎はノー天気で幸せなガキだった。平日の早めに帰宅した父は、よく家族全員を乗せて、箱根にドライブに行ったものだ。箱根は我が家の庭も同然だった。

●母、淳子(あつこ)

 母は自宅で洋裁を教えていた。当時は、子供に既製服を買うよりも、母親が作る方が一般的だった。嫁入り道具にミシンは必需品だった。共働きだったので、子供は邪魔になる。私は3歳から幼稚園に入れられた。「のびる」「朝日」「はにゅう」と3つの幼稚園に通った。甘いお菓子は好きではなく、辛いものが好きだった。お椀一杯の大根おろしを数時間かけてチビチビ食べるのが好き、という変った子供だった。(何とノー天気で幸せなガキではないか。)

 昭和36年に三島から駿東郡清水村に引っ越した。母の生家の有していた土地を購入して、初めて自分たちの好きなように設計して、建てた家だった。マイホームは庶民の夢だった。広い庭には芝生の一角と、藤棚や砂場、鉄棒などが配されていた。(いずれも父の手作りだった。)家の裏には母の実家が持っていた残りの広い土地があり、全面に芝生が敷かれていた。サッカーコートの半面ほどの広さがあった。田舎の広々とした空間でノビノビと育ち、私は清水村の小学校に入学した。それほど裕福でなかった母は、一計を案じ、小学校に制服を提案して採用される。これで上着は冬服1着でOKとなった。制服がある以上、たくさんの服は不要なのである。「東京のミッション系の良い所のボンボン達が通う学校に制服」をイメージしたグレー基調のそのデザインは飽きが来ずに、50年経った現在も着用されている。ちなみに母、淳子もその小学校の卒業生である。

 

日時: 2013.07.26|

No.3 数奇な半生  ●祖父「広瀬潤平—法名「法潤」

 私、広瀬一郎は、昭和30年9月16日に静岡県三島市に生まれた。当時は高台と呼ばれた地区だったが、今は町名が変っている。三島駅から伊豆急行で一つ目の広小路という駅から徒歩で5分くらいの住宅地である。父は秀礼(ひでのり)、母は淳子(あつこ)。一郎は広瀬家の3代目の跡取りだ。

 広瀬家は祖父の潤平が三島で起こした家だ。潤平は、江戸幕府の旗本高山忠兵衛の九男として生まれた。(兄弟の中の一人が大阪という都市の基礎を作った大阪市長の関一(はじめ)の母親だ。中之島公園には今も関一の銅像が建っている。「当時、日本で一番給料が高い公務員だった」というのが関一の自慢の一つだったらしい。我が父は関の従兄弟になる。)

 潤平は幼いころから秀才の誉れが高く、昌平校に入学した。ところが明治維新になり、旗本は全員解雇となった。潤平は生きるために酪農を志し、札幌農学校に入学。内村鑑三の2期か3期下の学年だったようだ。卒業後、上野下谷で牧場を営んでいた和田家に婿養子となる。和田家の長女がずいぶんな器量良しで、どうも潤平が懸想をしたらしい。(面食いは広瀬家の遺伝だろうか。)

 和田牧場と言えば、日本の低温殺菌牛乳の開祖として知られている。潤平は、アメリカ合衆国のミルウオーキーに2度渡り、ホルスタインを日本に連れてきた。この辺りのいきさつは、「東京牛乳物語」(新潮社刊)に詳しく描かれている。

 ところが何を思ったのか、長女に婿養子をとり、跡目を相続させ、自分は出家してしまう。日蓮宗で法名を法潤と称した。出家後、伊豆七島の新島に籠もり、来る日も来る日も読経に暮れていた。そして得た結論は、「日本が西欧列強に伍するためには、体格を改善する必要がある。そのためには酪農を振興すべし」。(立派な右翼だ。)

 還俗して広瀬という家を起こし、現在の三島駅の北側に実験農場を開いた。ここでは酪農だけではなく、社会改革のための私塾を開いていたようだ。(教師も家系的遺伝か。)伊東に一碧湖という湖があるが、あの辺りは広瀬農場の牛の放牧場だったらしい。今は別荘地になっている。潤平は再婚し、50歳にして広瀬家に長子が誕生し、秀礼(ひでのり)t。つまり我が父である。大正14年であった。この年に大正天皇が崩御し、年末の1ヶ月が昭元年なった。

 

日時: 2013.07.24|

No.2 数奇な半生

 

 「数奇な半生」の話の続きである。自分がなぜこんな数奇な経験をしてきたのか、そこに何がしかの特別な意味は無いのか?これらの経験は、この国に還元すべきではないか。自分の運命(さだめ)をそう定めた。無論一人よがりの思い込みではある。そして、様々な場面で、様々な組織に提案をした。

 まずは問題点の指摘だ。「これは問題ですよね?」「はい」…よし、問題点の認識はある。「では、こういう考えで解決を考えたら如何でしょうか?」「素晴らしい!」…よし、課題の認識もある。いよいよ具体的な提案だ。「では、具体的な方法として、こうしたら如何でしょう。」「いいですね。」「では、採用して頂けますか?」「いいえ」「・・・???」。これがその後のパターンだった。ほぼ、この繰り返しだった。(その後、東洋経済のメルマガで書いた連載コラムの中で指摘した「茹で蛙」状態の典型パターンだ。「問題点の認識」と「具体的な行動」がリンク(連携)していない。これは学童時代の教育に問題がある。スポーツで「スポ ーツマンシップを学ぶ」と、「脳と身体の連携」のトレーニングができる。この点については、「政策:スポーツマンシップ教育」で詳しく述べる予定。)

 霞ヶ関を去る前の古賀氏とお会いしたことがある。「実は私の周りでも同じようなコトの連続なんですよ。この国に自浄能力は無いのかも。ハードランディングしか打開する方法がないと思い始めました」と仰っていた。その後、半年経って役所を去られたが、霞ヶ関内部の自浄能力に見切りを付けたのだろうか。古賀氏は筆者と同じ昭和30年の生まれ。人生の最初から「55年体制」にズボッと入ってしまった世代である。

 古賀氏の徒労感は他人事ではなかった。そして、私にとっては将に極めつけの事件が起こった。「良かれ」と思って提案した某法人との契約当日に、契約を白紙にされたのである。それは将にその組織とその産業の将来への布石として提案したものだった。却下された理由が全く曖昧だった。少なくとも、当方からの提案内容が「その産業の課題解決にとって、良いかどうか?」という視点で判断され、却下された形跡は無かった。つまり本質が議論されていなかったのだ。(なお、その問題は依然として解決されていないし、解決に向けて有効な手段が講じられた節もない。講じられたのは、「やった」というアリバイ作りでしかなかった。「案の定」と 言うしかない。)

 翻って、今回の知事選では、どうだったであろうか?「静岡県の将来にとって、どんな政策が求められるのか?」そのためには「知事にはどういう能力が必要か?」という点は明確になっていたのだろうか?本質の議論があったのだろうか?「知事を選ぶ基準が明確になっていなかった」と感じたのは、私だけだったのだろうか?「感じの良い人かどうか」が最初の、そして一番重要な論点になっていなかっただろうか?言うまでもないが、これは課題解決にとって本質的な論点ではない。それとも、これは、所詮「落選者の戯言」なんだろうか?(ああ、7年前と同じだ!)

 話を戻すと、「白紙にしてください」と言われて、膝がくだけた。それと同時に心が壊れた。「もう現役は終わったな」感に包まれた。数ヶ月の間、何もする気にならなかった。(Wカップが日韓共同開催が決まった時も同じだったなあ。)「私は社会に必要とされていないのか?」「提案は大きなお世話なのか?」「むしろ、邪魔なのか?」悩んだ末に、ビジネスマンとしての現役を引退することに決めた。引退して、後進の育成に専念する決心をし、大学の教授職についた。

 あれから7年が経っていた。そこに今回の「県知事選出馬の打診」だった。まるで、「7年ぶりに現役に復帰し、バッターボックスに立て」と言われたプロ野球選手のようなものではないか。いや、プロ野球選手だったら、迷う事なく断るはずだ。しかしながら、当方は齢57歳。働き盛りと言っても良い。「50歳での引退は早すぎたか」と、悶々とした思いがこの7年間どこかにあった。自分を必要としている世界がある。これは強烈なモチベーションとなった。(それに加え、学生諸君には、日頃「義を見てせざるは勇無きなり」と言ってきたではないか。)

 事が決した後に「敗戦は既定路線として予め予見できたはずだ」と、事情通の友人に言われた。その説明には説得力があった。事前に相談すべき友人だったが、相談しなくて本当に良かった、と心の底から思っている。これまで「行ったこと」について後悔したコトが無い。反省はするが、後悔をしたことが無かった。唯一の例外となる後悔は、前述した「曖昧な理由による契約の白紙撤回」事件に抵抗しなかったことだ。別のある友人による「コトを荒立てるな」という助言に従った。その友人には申し訳ないが、その時にコトを荒立てなかった事については未だに後悔している。後悔は「やらなかったコト」にのみ生まれ、「しでかしたコト」には後悔 がない。これが筆者の生き方である。

 次回から、その数奇な半生を振り返る。(なお、筆者の数奇な半生にご興味のある方は、拙著「極私的サッカー見聞録」を参照されたい。)

 屋上屋を承知で繰り返すが、私が知事選出馬を決意した理由として、「私の数奇な半生の体験」が活かせると考えた点がある。それならば、これまでの半生を整理して明らかにしておくべきだろうと考えている。その上で、そういった半生の経験に根ざした「政策」の説明をさせて頂こうと考えている。

 この半生記の記述が長くなりそうだ。連載二ヶ月分くらいにはなるだろう。いや、今年中に終わるかな?長すぎる?途中で飽きたら、おかまいなしに次の「政策」に行こうかな。所詮、ブログだからいいだろう?それにしても、選挙戦中には「政策」を説明する機会が実に、実に少なかったなあ。これにはフラストレーションがずいぶんとたまったもんだ。このブログはその鬱憤晴らしでもある。ブログだから、それも許されるでしょ。

                                        (2013/07/22)

 

 

 

 

日時: 2013.07.22|

連載No.01 「知事戦に出馬?冗談でしょう!」 vol.1

2013年3月上旬、さる友人の紹介で自民党県連の幹事長が、上京して当方に会いに来られた。場所はホテル・ニューオオタニの中庭に面した大きなカフェ。全くの初対面だった。用件は「知事選出馬の打診」だった。(「飽くまで要請ではありませんよ」と念を押された。)静岡県の自民党が知事選に独自候補を擁立するのに苦労をしている、という噂は聞いていたが、まさか、それが私に関わってくるとは夢にも思わなかった。

 これまで、複数の政党から中央政界への出馬を打診されたことがあるが、いずれも即座にお断りした。政治に興味が無いわけではない。大学では「政治学」を専攻し、「政治学科」の卒業である。が、興味があるのは政策であり、政争には今もってとんと興味が無い。政治家になることに興味は無いが、政治家にできること、すべき事には興味がある。これまで、政治家個人に対して非公式に、あるいは公の場で政策提言をしたり、政治的な活動にも関わったこともある。

例えば、「スポーツ振興法の改訂〜スポーツ基本法の策定」について、アドバイサリーボードのメンバーを4年間務め、様々な提言をした。あるいは、平成17年に地方自治法が改訂され、開始された「指定管理者制度」の実施について、さまざまなリスクを説き、「事例」の共有が必要であると総務省に提言した。その後、自治体の代表や受注業者、更には有識者をメンバーとした「事例研究会」が立ち上がった。言い出しっぺの私はスポーツ界の代表として初年度から委員となった。(「指定管理者制度」とは、自治体が所有する施設を民間に管理委託することを可能にしたもの。事前調査で自治体の7割が「スポーツ施設」をその対象と考えていることが判明していた。圧倒的に一番だった。Jリーグなどのプロスポーツ産業にとっては朗報だった。)

そういった活動が耳に入ったので、お声がかかったのだろう。もっとも私にとってみれば、「県知事」になることを選択肢として考えたことは一度も無かった。県知事は直接選挙で選ばれる大統領のようなものだ。実際、静岡県の年間の予算規模は1兆2千億円で、これはニュージーランドの国家予算に匹敵する。「ニュージーランドの大統領」ともなれば、確かに相当な権限があり、かなりなコトができるはずだ。(具体的にやりたかった事については、後に述べる。)「政争」ではなく、「政策」の実行にエネルギーが割ける。聞いた途端に、「なるほど、その手があったか!」と口に出して言ってしまった。相手の幹事長さんは、キョトンとしていらしたが。

「なるほど」と頷いたもう一つの理由は、私の履歴にある。「数奇な半生」と言っても良いだろう。現在のFIFAのブラッター会長とは86年のWカップメキシコ大会でも、90年のイタリア大会でも同じホテルで、早朝に何回かボールリフティングの相手をした仲だ。「サー」という貴族の称号を受けた英国サッカーの名選手ボビー・チャールトンとは、1995年の年末のパリで、ゼネストのおかげで4時間にわたって空港に向かうタクシーの中で二人っきりで雪隠詰めをくらった。イタリアの名門サッカーチームのユベントスが、GMの恐喝や八百長などで3段階くらいの降格をくらったコトがある。その時のGMモッジ氏は、マラドーナを擁してイタリアリーグを制覇したナポリのGMで、私がゼロックス・スーパーサッカーのプロデューサーとしてそのナポリを招待した際の交渉相手だった。コロンビアのメデジン・カルテルの麻薬王エスコバルのチームが南米チャンピオンになって、トヨタカップの来日が決まった際、公安と相談したコトもある。チャウシエスク大統領が暗殺される前のルーマニアで、大統領の弟にして陸軍元帥がオーナーだったステアウアというチームが欧州チャンピオンになり、やはりトヨタカップでの来日が来まった際には、外務省に2度も説明に行かなければならなかった。サッカーに関わりながら、国の内外の政治や行政と関わった。就職先は広告代理業だったが、広告とは無縁な作業が如何に多かったことか。

 

日時: 2013.07.16|

連載の前に(第三回)

 「事後の検証」と「マニュアル化」以外にもブログに書いて公開する理由はある。第二に、「私たち祖国、日本の現実の姿」を認識することだ。

 一般的な日本人にとっては、筆者同様、「選挙」は余りなじみの無い世界だろう。この非日常の世界では、多くの非常識がまかり通っている。不合理なコト、不条理なコト、現実離れしたコトが「フツーのコト」として行われている世界である。実際、「選挙」という非日常的産業のギョーカイ人の中には、「選挙は人を狂わせる」とし、筆者に「候補にも狂ってもらいます」と言う人が少なからずいた。彼らは自らが「選挙の最中には狂っている」コトを認めている。そして、それは静岡という一地方に特有な現象ではないだろう。

 我々の日常生活が、選挙という「非日常」的世界で選ばれた「政治家」に任せる政治に大きな影響を受けている。(「政治」における「非日常と日常の関係」は、多くの政治学者や社会学者の研究対象となっている。)研究者でなくても、一般の生活者にとっても興味のあるテーマであろう。

 なぜなら、それは誰にとっても自分に関係するコトだからだ。「美醜」や「当為」「是非」とは別の問題として、ここには私たち自身の生活、思考、信条が反映されている。それをオカしいと言うなら、私たち自身が「オカしい」のだ。それを直視すべきだと思う。自分たちの本当の姿を見るのは不快だろう。それは嫌だなあ、と思われる方は、このブログを読まないことだ。「どんなに醜かろうと、自分たちの本当の姿を見たい、いや見るべきだ」という勇気のある方は、コラムの連載を楽しみにされたい。(3回/週×20週くらいの予定)

日時: 2013.07.16|