連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.11  電通入社の顛末  2013/08/03

 大学4年生の夏に、ある方と偶然に知り合ったことで、私の人生が大きく変る。実に不思議な人だった。田中角栄首相によって日中の国交回復がなされたものの、直後は個人的に中国に行くのはなかなか面倒だった。そんな時に「日中学生交流使節団」を組織して、日本から100名以上の学生を中国に連れて行く、そんなことを企画し、団長になったのが二見武興という人物だった。那須の山を開墾して二見牧場を経営していた。お会いした時はまだ30代そこそこだった。本当に不思議な人で、現代の国士だった。学生使節の中には多くの東大生がいた。その中に私の友人もおり、「是非、広瀬に会わせたい人がいる」と那須まで連れて行かれた。実は大勢の学生で行くのに車が足りず、私の黄色い中古のセリカを調達するのが目的だったようだ。

 豪快な方で、大勢の学生が訪れると、喜々として迎えてくれた。家が二つあり、片方には鍵がかかっておらず、我々は出入り自由だった。時々、東京に遊びに来ると、仲間が集って楽しい時を過ごした。そんな中に、後に政治家になった小沢鋭仁さんや、財務省や防衛庁その他の役人になった者も少なくない。集まって話すことは他愛ないことが多かった。決して悲憤慷慨して憂国を語るといった感じはなかった。女子大生も多かった。仲間同士で結婚に至ったカップルもいくつかあった。

 お会いしてしばらく経った時、「広瀬、お前東大生らしくなくておもしろいな。」

(これは、当時、私に対する定番の褒め言葉だった。)「どうだ、電通に行かないか?」と言われた。恥ずかしい話だが、電通という名前を聞いたことがなく、何の会社か分からなかった。よく知らないまま、那須でとれたリンゴを電通の大津大八郎常務の家に届けることになった。大津さんは、東南アジアで終戦を迎えた元職業軍人である。陸士のご出身で、大尉で終戦を迎えられたと聞いている。

 電通という会社は元々国策会社のようなものだった。明治期に職業軍人の光永さんという人が、日露戦争に備えた雪中訓練のときに凍傷で足を痛め、軍人の道を断念して作った会社だ。当時、外国の通信社に頼っていた報道を、自前の通信社を備えるべきだと考え設立した。新聞社には通信社に払う金がないので、替わりに新聞のスペースをもらい、それを企業に広告スペースとして売って会社の収入とした。その出自は、企業よりもメディアの代理人という側面が強い。日本独特の広告代理業のスタイルは、こうして生まれた。後に通信社と広告部門が分かれて別会社になる。1904年の日英同盟が締結された年に、共同通信と分離して電通が生まれた。

 その後、第二次世界大戦中に、数百あった広告会社が9つの地域毎に1つだけ、合計9つに統合された。うち7つ(だったかな?)は電通だった。戦後、電通は多くの有能な公職追放者を受け入れた。旧満鉄出身者や元軍人も少なくなかった。大津さんはその中の一人だった。入社して大分経ってから、自民党でカミソリと言われた川島正次郎副総裁のもとに、秘書として9年間も社業として出向していた。自民党だけではなく、永田町のことは裏まで精通していた人だった。政治家を目指す多くの人が大津さんを尋ねて相談していた。その中には、前述した小沢鋭仁さんや、柿沢弘治さんらがいた。

 那須からリンゴを運んでいったら、「せっかくだからウチで飯を食って行け」と家に招き入れられた。「九州から上手い明太子が届いているから出してやれ」。明太子が美味で、飯を5杯食ったら、「食いっぷりがいいな。ウチに来いよ」。「はい!」こうして私の電通入りが決まった。(当時は「サラリーマンはもってせいぜい5年」という意識があったから、どこでもいいや、という思いがあった。まさか20年もいることになろうとは!)

(二見武興氏は、その後38歳で夭折した。ある豪雪の冬、雪中での事故だった。彼が生きていたら、今の日本をどう思うか。私の知事選の出馬に、どう言ったろうか。興味深い設問だ。惜しい人だった。)

 

 

 

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日時: 2013.08.03|