連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.12 電通入社  2013/08/04

  電通に入社した当時は、配属までに1ヶ月の研修があった。1980年の採用は男性社員が120名、女性は60名で全員が短大卒の事務職だった。我々男性は12名一組で10の班に分かれて研修をした。研修中にクリエーティブのお偉いさんから、「君はクリエーティブに向いているねえ」と言われ、自他ともにクリエーティブに配属されると思っていた。配属発表の日、発表は営業(当時は「連絡」という名前だった)からだった。全員の最初に「広瀬一郎」と呼ばれてビックリして返事をしたら、人事の人が勘違いして「さすが営業は声が大きいな」と褒められた。大きな勘違いだった。

 当時の営業配属者は、営業に行く前にマーケティング局とクリエーティブ局に分かれて1年間預けられることになっていた。広瀬一郎は「連絡総務付け、マーケティング局第1マーケティング預かり」だった。ここで1年間、マーケティングの基礎と実務を教わった。特に「調査」の手法と「調査報告書」の書き方は、後々まで役に立った。(同じマーケティング配属には、「戦艦大和の最期」の著者、吉田満氏の息子の吉田望君がいた。クリエーティブ配属にはタグボートの創立社の岡君、タイノスを創立しユニクロの広告戦略を作り、現在はJ-Waveでパーソナリティーをしている大倉君などがいた。全員が、その後電通を卒業している。)

 1年後に「第八連絡局」に配属となった。「鬼の第八」と呼ばれ、最大のクライアント「トヨタ自動車」の担当局である。当時はまだ「トヨタ自動車工業」「トヨタ自動車販売」に分かれていて、我々は九段上の靖国神社の向かいにある「トヨタ自販」の東京本社に通っていた。「工販合体」はそのしばらく後だった。

 連絡(営業)としては3年働いた。電通社内のサッカー部でもプレーしていたので、私が藤枝東高校でサッカーをしていたというコトは、そこそこ知られていた。入社した翌年にトヨタカップが始まっていた。第1回目はトヨタ担当の営業として当日のプレス用の車通用門の担当だった。第1回は2月開催で、真冬だったがコーツ着用は禁止されていた。(理由はいまだに謎だ。)第2回からは12月の第2日曜の12時キックオフと決められた。トヨタとサッカーを知っていたので、トヨタカップを担当させよう、と考えたに違いない。入社4年目の84年、ロス五輪の年にスポーツ・文化事業局に配置換えとなった。望むところだった。

 すぐにキリンカップの手伝いをした。当時はまだ「ジャパンカップ」と呼ばれていた。続いて「釜本選手引退試合」。当時はJリーグがなく、日本リーグはアマチュアのリーグだった。アマチュア選手の引退試合を有料の興行で行うというのは初めての試みだった。我々の危惧にも関わらず、興行としては大成功だった。ドイツのオベラーツと「神様ペレ」も参加してくれた。(ゲーム終了後、懇親会会場を取り巻いたファンからペレを守るため、約30mペレの手を引いて走って会場入りした。神様と手をつなぐ等、考えたこともなかった。)放送したTV東京では、社内で社長賞を獲得したはずだ。

 年末のトヨタカップの準備で忙しいころ、全日空の営業担当から「日本リーグの1部に全日空が昇格したので、記念試合を企画して欲しい」という話が持ち込まれた。他の人が忙しかったのだろう。初めてプロデュースを任された。まずマッチメーク。対戦相手は古豪古河に頼んだ。Jリーグが始まる8年前のことだ。観客は1万も入れば大入りと言われた。テレビ局も中継などしたがらない。そこで一計を案じた。引退直後のケビン・キーガンというイングランドの元キャプテンで人気選手が某メーカーの販促のために来日するという情報をつかんでいた。そのメーカーと交渉し、全日空チームにゲストプレーヤーとして出場を決めた。古河には、ブンデスリーガが終了して一時帰国する奥寺さんをゲストに入れてもらった。会場は横浜球場。サッカー協会が初めて公認した人口芝のゲームとなった。放送はテレビ東京で、解説は加茂さんだった。これが縁となったのか、加茂さんはJリーグ開始時にフリューゲルスの監督となり、後に日本代表の監督となり、Wカップ予選の最中に更迭され、全日空昇格記念ゲームに古河の選手として出場していた我が友、岡田武史に監督を譲ることになる。なんだか因果めいた話ではないか。

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日時: 2013.08.04|