連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No13  国際スポーツビジネスに関わる  2013/08/05

 1985年のトヨタカップは欧州代表にプラティニを擁するユベントスを迎え、事前から話題になって盛り上がっていた。前売り券は発売直後に完売。イタリアにおける放送権は、ベルルスコーニ氏のTV局が獲得していた。欧州は長い間、公営TV放送局が放送を独占していたが、80年代の後半になってやっと民間放送局が登場してきた。ACミランのオーナーでもあり、その後首相にまで上り詰めた、何かとお騒がせ男のベルルスコーニ氏の放送局が、イタリアで一番人気のあるユベントスの、しかも国際的な公式試合を放送するというコトは、将に民間TV局の攻勢を象徴するコトで、イタリア国民もビックリしていたに違いない。(ベルルスコーニ氏の狙いもそこにあった。)

 そのトヨタカップの大会直前、突然にメキシコ行きを命ぜられた。翌年のWカップの組み合わせ抽選会に出るためだった。Wカップとの関わりの第一歩だった。電通は国内の広告市場で24%の売り上げを誇っていた。2位の博報堂は8%だった。25%を越えると、独占禁止法に抵触する疑いを持たれるという話だった。売り上げの伸びは、海外に求めようということになった。そのために、国際的なスポーツイベントの広告その他の権利を取得するために、投資を開始したのが80年代だった。

 筆頭がオリンピックとサッカーのWカップだった。この2つの権利を取るために、アディダス社の2代目当主であるホルスト氏と組む事にした。ホルストがスイスに設立したISLという会社の49%の株を取得したのだ。さらに、初めての民活五輪となった84年のロスアンゼルス大会で、組織委員会の会長となったピーター・ユベロス氏と組んだ。(そもそもホルストを電通に紹介したのがユベロスだった。)この大会は事業的な大成功を納めた。それまでの「金のかかる五輪」が、「金の儲かる五輪」に180度変身したのだ。(詳しくは拙著「スポーツマーケティングを学ぶ」を参照されたし。)

 「マラドーナのための、マラドーナによる、マラドーナの大会」と呼ばれた1986年のメキシコ大会と、「古き良き姿の最後の大会」だった1990年のイタリア大会を担当した。(「神の手」も「5人抜き」も、現地のアステカ・スタジアムにいて目撃した。メキシコの強烈な夕陽を背景にして、ジャンプしたマラドーナの首が急に伸びたように見えたが、あれが神の手だったとは。)

 1990年のイタリア大会まで、Wカップの開催は基本的に欧州と南米の交互開催だった。世界クラブ選手権と称したトヨタカップは、サッカークラブの欧州チャンピオン対南米チャンピオンの戦いだった。北米もアフリカもアジアも、それを認めていた。いいか悪いかは別にして、サッカーとは欧州と南米の競技だった。ところが、1974年に欧州以外から初めて選ばれた国際サッカー連盟(FIFA)の会長、アベランジェ氏はサッカーの世界化を進める意図を持っていた。そのためには、GDP1位のアメリカと(当時)2位の日本をどうにかして国際サッカービジネスのマーケットに組み込む必要があった。1994年のアメリカ大会は、そうして決まったのだ。ここでサッカービジネスのグローバル化がスタートしたのだが、それはアメリカ風のビジネス(今風に言えば「グローバル・スタンダード」)をサッカーに取り込むことだった。アメリカ大会以降、大会の運営は立派にシステム化された。事業規模は拡大するばかりだ。だが、一方で、かつてのWカップの、どこか牧歌的な風景を懐かしむ向きも少なくない。

 

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日時: 2013.08.05|