連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No14 2002年Wカップ招致に関わる 2013/08/06

 86年のWカップメキシコ大会以来、何となく国際スポーツ担当のようになっていた。サッカーは「トヨタカップ」「キリンカップ」「ゼロックス・スーパー・サッカー」に加え、五輪とWカップのアジア予選、さらには日本リーグ(JSL)を担当。(当時はこれら全てのプロデュースを一人でやっていた。大変ではあったが、かなりの自由裁量権を与えられて、楽しかった。)

 サッカー以外もいくつか手がけたが、中でも89年のアメリカズ駅伝」は今でも印象深いものだった。当時は駅伝という日本発の競技は国際的な認知を得ていなかった。それを国債陸連に認めさせて、駅伝のWカップなどを実施し、徐々に認知されるようになっていた。ロードレースは本来個人競技で、それをチームで戦うという発想は欧米人にとって新鮮だったようだ。また、「アメリカズ駅伝」は国際大会という側面と、アメリカの全驟州の州対抗という部門を設けてアメリカ国内の人気定着に努めた。アメリカには国体がなく、「州対抗」という競技方法が新鮮だったようだ。

 しかし、何より私にとって新鮮だったのは、NY市との交渉窓口が「スポーツコミッショナー」だったことだ。そういう存在があるのを初めて知った。LAの「フィルム_コミッショナー」は有名だ。ハリウッドを持つ都市LAは映画産業と観光産業の存在が大きい。そこで、市内のロケを市が積極的にバックアップし、地域振興に結びつける役割を担っていた。NYのスポーツコミッショナーも同様に、スポーツを積極的に支援することで、観光に結びつける狙いがあった。今でも週末の早朝は、五番街やセントラル・パークでロードレースが行われている。NYシティーマラソンは、国内外から20万人の観光客が訪れる、市の秋の名物イベントだ。我々は「アメリカズ駅伝」をNYの春の名物イベントとして定着させたいという野望を持っていた。このイベントが財政的な問題で、2回で終了したのは残念だった。続けておたら、立派な名物になっていたろうに。スポーツコミッショナーのオフィスはバテリーパークに面したワールドトレード・センター内にあった。そう、あの同時多発テロで飛行機が突っ込んで跡形もなくなってしまったあのビルである。

 89年の年末、トヨタカップの前日、翌年開催されるのWカップ・イタリア大会の担当を命じられた。急遽の担当替えだった。翌日、大会当日の朝、国立競技場に行くと、ISLのキース・クーパーがニコニコしながらアンツーカーの上を歩いて近寄ってきた。「Welcome back !」と言ってきたので、彼の差し金だと分かった。彼とは86年のメキシコ大会で一緒に仕事をし、その後もトヨタカップでっチームとの出場交渉を任せていた旧知の中で、信頼がおけたのだろう。(後にキースは転進し、FIFAの広報官となり、2002年大会では広報を仕切っていたが、決勝の翌日にブラッター氏に解雇された。FIFA内の政治闘争に巻き込まれ、とばっちりを受けた格好だった。「スイスの国内法では、解雇理由を明示する必要はない」と言われたようだ。厳しい!)

 イタリア大会の開会式の前々日、ローマのカバリエリ・ヒルトンホテルでFIFAの総会が開かれた。そこで日本サッカー協会は「2002年の大会を日本で開催する意思」を表明した。総会で配布された「招致パンフレット」は日本から送られたが、その送り先は同ホテルに事務局を構えていた筆者の部屋だった。結局、行きがかり上、総会で各国の机の上に配布したのは、他ならぬ私だった。(このホテルには、当時の専務理事だったブラッター氏も泊まっていた。メキシコでも同じカミノレアル・ホテルだった。早朝、一人でボールリフティングしていたので、一緒に相手をしてあげた。FIFAの現会長のJブラッター氏とボールリフティングで遊んだ日本人は、多分私だけだろう。)

 大会の日本招致パンフレットを配りながら、実は心中「日本でWカップの開催?まず無理でしょ」と思っていたことを告白しなければなるまい。86年の前回大会でWカップの凄さを目の当たりにして、「こんなことが日本でできるわけがない」と思っていた。例えば、メキシコでは自国の代表チームが勝つと、深夜に酔っ払った若者がクルマ10人くらいに乗って通りを大騒ぎしながら走り回る。当然、事故が起き、死人が出ることもある。翌日の新聞には「Wカップだから仕方がない」と書かれるのである!イタリアでは我々オフィシャルの役員の乗るバスは、試合当日、スタジアムに向かう際、信号は全て無視し、場合によっては反対車線を走る。こんなことが、日本で許されるハズがないではないか。(ただし、日本でも「諏訪大社の御柱祭り」や「岸和田のダンジリ祭り」では、似たような事故が起きるが、祭りは廃止にならない。Wカップは「世界の人が集う国際的なお祭り」だと考えると分かりやすい。)

 私が「日本でも開催されるかもしれない」と思い始めたのは、1993年にJリーグが創設された後のことだ。上述したように、電通でサッカー担当として、「トヨタカップ」「キリンカップ」「ゼロックス・スーパー・サッカー」のプロデューサーを務め、同時に「日本サッカーリーグ(JSL)」の広告買い切りを仕切っていた。従って、JSLがどれだけ不人気かを嫌というほど知らされたていた。スタジアムはどの試合も閑散としている。テレビ中継など年に2回か3回。それもNHKが公営放送局としてマイナースポーツもカバーするという義務感から、であった。(詳しくはJリーグの初代専務の木之本さんが書いた「空っぽのスタジアムからの挑戦」を参照されたい。)スポンサーに広告看板を売るのは至難の技だった。

 実は、アメリカズ駅伝実施のためにNYに渡る直前、JSLから「プロ化」について電通もプレゼンテーションしないか?と声をかけられたが、社内の「非現実的」という判断に私も従ってプレゼンテーションを降りた。「プロサッカーリーグ」の創設など夢のまた夢、だと思われていた。当時としては、実に常識的な判断だったが、今にして思えば「なぜ挑戦しなかったのか」という忸怩たる思いがある。Jリーグの創設は、ライバルの博報堂が担当し、我々は「Jリーグ・ブーム」を指をくわえて見ている他なかった。(Jリーグが創設を企図してから創設するまでの4年8ヶ月の動きについては、拙著「Jリーグのマネジメント」を参照されたし。)

 「どんなに非現実的に見えても、叶う夢がある」ことをJリーグの発足は教えてくれた。世界がJリーグの創設を驚きの目で見ていた。余り知られていないが、サッカーの母国、英国のプレミアリーグの創設において、Jリーグの制度設計はかなり参考にされている。戦略的な制度設計という点で、Jリーグはその後の世界のスポーツビジネスに、本当に凄い影響を世界に与えたのである。(川淵三郎氏は、「20世紀のスポーツ界に影響を与えた世界の100人」中に、間違いなく入るだろう。)

 

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日時: 2013.08.06|