連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No15 「2002年Wカップ招致活動」  2913/08/07

政治に直接関わった最初の機会は、「2002年のWカップ」の招致活動だった。前述したように、90年に開催の意思を表明してから日本の招致活動は続いていたが、実をあげるには至っていなかった。大きな計算違いが2つ生じていた。

第1は、「ドーハの悲劇」だった。ご存知のように、94年開催のアメリカ大会のアジア予選の最終ゲームで、このまま行けば史上初の本戦出場が決まるはずだったが、ロスタイムにコーナーキックのヘディングでイラクに同点弾を献上し、出場権を逃したあの試合である。(NHK-BSで中継中、似鳥キャスターの「岡田さん、負けちゃったじゃないですか〜」という実にノー天気な突っ込みに、思わず絶句してうつむいた岡田氏。この四年後に、代表チームを率いてジョホールバルで奇跡を起こすとは、誰も想像していなかった。)この失点で、開催権を争っていた相手の韓国に出場権が渡った。こっちにとっては「悲劇」だが、あちらにとっては将に「神の恩寵」だった。試合終了後のテレビでは予定されていなかった大統領が画面に登場し、この勢いでWカップ開催権の争奪も日本に勝つぞ、と宣言した。Jリーグ発足後、初のアジア予選だった。国民が注目して負けた。ここで出場しておかないと、本戦に一度も出場していない国で開催して良いのか?という問題が浮上する。開催国は無条件で出場できるからだ。更に、韓国のサッカー協会の鄭会長は、韓国の財閥である現代グループの跡取りである。ここで日本に勝つことで、政界への進出が実現性を帯びるという話もあった。

第2の失敗は、その鄭会長をFIFAの理事に当選させてしまったことだった。94年のWカップアメリカ大会の直前に、アジア枠の理事3名のうちの一人の改選が行われ、日本からは村田専務理事が立候補し、鄭会長に負けた。事前に日本が勝てないことが分かったので、日本の票を西アジアに回すはずだった。そして韓国ではなく、西アジアから理事が誕生するはずだった。その情報を知らせたのは他ならぬ私だ。情報源は明かせないが、かなり確実な情報だった。裏もとれていた。なのに、なぜ?という思いだった。日本の招致活動の失策が続いたために、7月に委員会の全面改組となった。新しい組織委員長は私の大学のサッカー部の大先輩、岡野俊一郎さんだった。

私が電通からサッカー協会内の招致事務局に出向したのは、1994年の11月のことだった。企画部と広報部の副部長の兼任だった。企画部というのは「政治的な事項」を扱う。国内と国外の「ロビー活動」及び、国際サッカー連盟(FIFA)に対する「開催計画書」と「プレゼンテーション」の作成も企画部の仕事だった。出向後、緊急の課題は、「政府の了解」を得ることだった。翌95年の3月までに正式な立候補をするためには、どうしても政府の了解が必要となる。正式な立候補をするためには、FIFAの提示する「開催要求基準書(List of Requirements)」を満たさなければならない。13個の要求項目には、政府の了解を必要とするものが多かった。例えば、「FIFA加盟国のどの国が本大会に出場を決めても、当該国の通貨と日本円との交換を保障せよ」に答えるためには財務省の承諾が必要になる。

実は、日本サッカー協会(JFA)が招致を決めた時点の政府は、日本新党の細川政権で、自民党は下野していた。そこでJFAと電通は与党の実力者であった小沢一郎氏に「招致議員連盟」の組織を依頼し、「閣議決定」に向けたロビー活動を任せることにした。ところが、その後社会党の村山富一委員長を首班とした「自社連立政権」という誰も予想しなかった政権が誕生し、日本新党は自民党に変って下野してしまった。「招致議連の改組」をし、時の政権に「大会招致の閣議決定」をしてもらわなければ立候補に間に合わない。焦った。この時の小沢氏の態度は潔かった。おかげで、宮澤喜一元首相を会長とする超党派の「招致議連」に改組がスムーズに行き、ギリギリの3月初旬の「閣議了解」が得られ、正式な立候補ができたのだ。

 

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日時: 2013.08.07|