連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No23  スポナビ興亡の顛末 2013/0815

 2000年のシドニー五輪に間に合うように、サイト立ち上げの作業は突貫工事だった。1999年の年末のある日、副社長の本間君から、「広瀬さん、国際オリンピック委員会のHPに、ネット・メディアの取材ID申請のことが出てますよ」という情報がもたらされた。「コレは一大事!」である。94年のWカップアメリカ大会と96年のアトランタ五輪で、国際スポーツのIT化が進み、ネットメディアに取材許可証が出るのは時間の問題だと思われていた。しかし、既存のマス・メディアからすると新規のネット・メディアの進出をおいそれと認めるわけには行かない。FIFAもIOCもタイミングを見計らっていた。その他の国際競技連盟は、五輪とWカップの動向を注視していた。それが20世紀末のスポーツイベントをめぐるネットメディアの一番大きな問題だった。

 99年の12月にIOCのHPにだけ、「ネット・メディアの取材申請を受け付ける」というコトが掲載されていた。記者発表も何もなく、「さりげなく、ひっそりと」という感じだった。「よし、申請しよう」と即断し、同時にFIFAの広報にいた知人に側面援護を依頼した。IOCの広報担当者に、「スポナビ」のコトを推薦しておくように頼んだのだ。国際スポーツ競技団体の現場スタッフは、常に横の連絡を取り合っているし、職も融通し合っているのだ。年明けの2000年の1月末に、「シドニー五輪の取材許可」が下りた。ネットメディアとして史上初の「取材が公認された」会社は世界で13社だった。あのHPの公告に気がついたのが、世界で13社だったのだろう。そして、日本からは、我がスポナビ1社だった。スポナビは、2000年のシドニー五輪の取材実績で、2002年のWカップ日韓大会でも公式取材IDを得られたが、これも計算のうちだった。

 シドニー五輪開幕に間に合い、開催期間中に目標のPVを達成し、出だしは順風満帆に見えたが、あとがいけなかった。あろうことか、スポナビを創設した2000年から、2002年の二年間、ネットバブルが崩壊し、我々が主たる収益源として見込んでいた「ネット広告」市場が完全に踊り場になっていた。それまでは毎年5割の伸び率だったのに!(神様は私に「ネット産業は君の居場所ではないよ」と言っていたに違いない。)結局、収益モデルの目論みが崩れ、2002年の夏(皮肉なことに日韓共催のWカップ終了の直後)、事業(サイトと社員)をヤフー・ジャパンに引き取ってもらい、会社を清算した。副社長の本間君がスポナビに残って、ヤフーへの事業譲渡を取り仕切ってくれ、社員を連れていってくれた。おかげで、身軽になれたのだ。今でも感謝している。スポナビというサイトは今も存在する。名付け親としては、いいネーミングだと自負している。

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日時: 2013.08.15|