連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No31 「知事のミッション」とは何か?  2013/0823

 本日から第二部の「政策」の連載をスタートします。(前回までは第一部の「生い立ち)編でした。)

 知事選で掲げる「政策」を考えるにあたって、まず「知事のすべき仕事(=ミッション)」とは何かを考えてみた。(それが生真面目すぎたことは、敗戦後に知るのだが、政策を考える時点では、「知事とはどうあるべきか?」を真正面から真面目に考えてしまっていた。まだ「殿様選びゲーム」だと思い知る前の段階だという点、ご承知おき頂きたい。)

 知事が(極めて常識的には)「地方行政の長である」と前提するなら、知事の役割は、第一に住民の安全な生活を確保するために「地方行政のビジョンを描く」コトであり、次にそれを実現するための「(行政)組織のマネジメント」が来るはずだ。言うまでもないが、「ビジョンを描く」コトと「組織運営」には、それぞれ個別の能力を必要とする。現職の川勝知事は、「マニフェスト大賞」を取られた方なので、前者ついての能力は実証済みだが、自民党県連はその「実行度」について検証したところ、不十分という評価を下した。確かに前者のみなら「夢を語るだけの法螺吹き」だし、他方、後者のみなら行政マンで十分で、知事である必要はない。知事には両方の能力が必要だ。

 くどいようだが、「知事を選ぶ」基準は、飽くまでも「行政府の長として誰が最も相応しいか?」であるはずだ。(と敗れた後の今でも思っている。良く言えば「ブレない」のだが、「懲りない性分」だとも言える。)正直なところ、今回の静岡県知事選で負けたことについては余り悔しいという感覚はないのだが、選挙が選択であるなら、「選挙の争点」が最後まで不明だった点が、今でも自分の中では納得できていない。(もっとも、トリプル・スコアの大敗であるから、「悔しい」と言う事自体が烏滸がましいのだが。)

 現職の川勝知事がアピールした事の中に、「政策」と呼ぶに値する事項が極めて少なかったと思う。(「フジの国の理想郷」などというキャッチフレーズは、言うまでもなく「政策」ではない。)県民は冷静に候補者達の主張を比べ、「行政の長としての能力」を判断して「選択」し、投票したのだろうか?「大好きなお殿様を投票で決めちゃおう!」ゲームでいいのだろうか?(それとも、これは所詮「負け犬の遠吠え」に過ぎないのだろうか?)

 実は、出馬宣言の直後に、静岡県では名の知れた経済人である某氏と会う機会をセットされた。(特に名は伏す。)開口一番「川勝さんが経済に疎いのは分かっています。彼は、自分でもそれが分かっているので、私たちの言い分を聞く。だからいいんですよ。」この人は自分が何を言っているのか分かっているんだろうか!?マジマジと顔を見てしまった。どうも冗談ではないらしい。何せ「自分達がコントロールしやすいかどうか」を知事選択の基準にしている、と宣言しているのだ。正気か?余りにも正直すぎる。仮にそう思っていても、人前で口に出すべきことではあるまい。それとも、「貴方は私たちの言う事を聞くか?」とさぐりを入れたのだろうか?

 残念ながら、多かれ少なかれこの人と同様に、選挙を通じて「静岡のためには誰がいいのか?」という言わば民主主義の原則に基づいた選択基準を耳にしたことがほとんど皆無だった。選挙民は「自分個人の好み」を優先していた嫌いがあった。だから「感じがいい」というイメージ戦略が優先する。(まさに「AKB総選挙」と同質である。AKBのセンターポジションを獲得する娘は、決して歌が一番上手いわけでもなく、一番奇麗な娘でもなく、ダンスや演技やトークが一番上手いわけでもない。)そして、選挙を戦う側にとっては、「どうしたら選挙に勝てるのか?」が第一優先だ。確かにこのことは理解するが、「演説の最後に泣け」「土下座しろ」「狂え」など、将に正気の沙汰ではないコトバが日常のコトとして流通している世界だった。「一体、選挙とは何か?」「この国に民主主義は根付いているのか?」という原理レベルの問いについて考えさせられることがしばしばだったことを告白しよう。(「現状がどうであるか」という事実認識と、「どうあるべきか」という価値判断は、別の問題として議論すべきだ。)

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日時: 2013.08.23|