連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.47 「人災」の本質は、勇気の欠如 2013/0913

 「人災」を象徴するのが「東京電力」の対応だった。あの日、東電の会長と社長は両名とも揃って東京本社を留守にしていた。まるで神が存在して、そこを狙ったような日に起きた天災だった。東電という会社の社会的な存在価値と、「原発のリスク」を自覚していたら、この会社組織のトップ両名が同じ日に本部を留守にするわけがない。彼らは自己の置かれている立場について、「覚醒」していなかったと言われても仕方が無い。

 原発の事故のあと、管首相の判断で、事故対策本部が東電本社に移され。東電の関係部署の部長達が集められた。会議が始まる前に、会議室の後ろの方では東電社内の部長同士が名刺交換をして「初めまして」と挨拶しているのが目撃されている。目撃した内閣府の某官僚は、その光景にショックを受けたそうだ。それはそうだろう。彼らに覚醒があれば、事故が起きる前に、日頃からコミュニケーショがとれていたはずだ。しかしながら、災害が起こって「初めて」会った同士だったのだから呆れる他ない。東電では「事故は起きないもの」という神話があり、リスクに対応すべき品質管理部は、配属されたら出世ができない部署として社内では有名だったという。本当だとしたら、開いた口が閉まらない、とはこのことではないか。組織として覚醒がなかったことが明らかになった。

 2012年の夏、国会事故調査会の報告会があり、横山委員は「専門家はいた。専門的な知識はあった。だが、関係者に意気地がなかった」と断じた。専門家の間で「リスク」は既に予想されていたが、それを具体的に指摘し、行動を起こすと「角が立つ」ので黙っていた、というのである。組織内には「同調への抑圧」が存在した。(あとで触れるが、山本七平はそれを「空気の研究」の中で論じたと。その後も、「カネボウ化粧品」のユーザーに皮膚に白いマダラが出た問題など、この手の事件は枚挙に暇がない。社会全体に「覚醒」が欠けているのではないだろうか。)

 「覚醒」とは何か。「意気地」とは何か?これを「勇気」と言い換えると分かりやすいだろう。では、勇気とは何か?古来、我が国でも「義を見てせざるは、勇無きなり」と言われてきた。「勇気」とは、「すべきコトをする」「すべきでないコトをしない」態度のことである。決して「考える」だけで終わってはならない。つまり、「勇気」とは、「覚醒」と「行動」のことに他ならない。現代社会において「勇なき」ことが、どれだけ危険であるか、我々は思い知ったはずだ。それが「人災」だ。にも拘らず、「覚醒」せず、何の「行動」も起こさない。これが「人災」の本質なのだ。

 では、「勇気」を身につけるにはどうしたらいいか。常識的に考えれば、「教育」に答えを求めるしかあるまい。では、どんな教育によって「勇気」が身に付くのか。「覚醒」と「行動」は、どのようにしたら身に付くのか。「覚醒」とは脳の反応が良いことだ。「行動」とは身体の動きだ。「脳」と「身体」を統合するのに最適な教育ソフトは何か?答えは明らか、「スポーツ」である。

 事実、スポーツの母国、英国では「勇気」は「スポーツマン」に不可欠な能力とされている。近代スポーツは、19世紀の後半、ビクトリア朝イングランドのパブリック・スクールで完成されたソフトだ。イングランドが国策としてスポーツを「リーダー育成のための教育ソフト」として完成させ、採用したことは歴史の示すところだ。(「ウィカミスト論争」「クラレンドン委員会報告」などを辿れば、それは明らかだが、ここでは紙幅の関係で割愛する。興味のある方は、背著「スポーツマンシップ立国論」をご参照あれ。)

 

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日時: 2013.09.13|