連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.50 「空気」の研究 2013/0917

 今日の日本は「国民国家」となってから100年以上を経過し、国民という概念は既に一般化している。別に体育で仮想敵と戦う訓練を通して「ナショナリズム」を植え付ける必要などない。第二次世界大戦後、国際社会は原則的に不戦主義になっている。こんな中で、日本ではまだ「兵士の養成」を原理とした「体育」が義務教育に残ってしまっている。(今回の東京五輪開催に水を差すつもりはないが、そういうスポーツの基本的な原理が21世紀になっても教えられていない国で開催していいのだろうか?この機に早急に改善すべきだと思う。)そして、この矛盾が、学校教育の問題に留まらず、社会全体のリスクを増す「人災」が起きる基礎になっている。これが私の分析であり、「人材教育」を政策の核に入れた根拠だ。

 古くは山本七平が名著「空気の研究」で指摘した抑圧的な「空気」の問題でもある。第二次世界大戦後、極東軍事裁判で連合軍の検事が戦犯の調書を取ろうとした。すると全員が異口同音に、「私個人としては米国と一戦交えるコトに反対であった」と回答した。では、なぜ開戦に至ったのか?やはり、全員が「しかしながら当時の空気が・・・」と答えたのだ。まさに「空気」という「同調への抑圧」が存在していたのだ。日本人ならこのやり取りには苦笑いしながらも理解はできるだろう。今でも別に珍しくもない光景だ。しかし、当時の連合国の検事はほぼ全員が西欧文化で育った人だったから、「空気」が「大臣」や「総理」や、さらには「天皇」をも越えた存在であることに衝撃を受けた。「主権者は空気か?」と。

 もう一つ、笑えない事実がある。戦争末期に、連合国側が「ポツダム宣言の受諾」を迫った際、米内内閣は、「国体の護持」を条件に受諾すると伝えた。この「国体」は、組織でも無ければ、まして天皇制のことでもない。連合国側は「国体」の意味が分からないまま徒に時が流れ、ついにエノラゲイによって広島に人類初の原爆が投下された。その報を聞いた米内光政は。親しい部下の前で「良かった。これでやっと降伏というコトが討議できる」と、思わず正直に心情を吐露したらしい。本当だとしたら、ヒドイ話ではないか。が、日本人なら「どうも本当に違いない」と思うだろう。(アメリカ人なら「クレイジー!」だと思うに違いない。)

 これらのエピソードは、「人災」に共通する問題点を示している。「人災」とは、非常時における「リーダーシップの欠如」から起きる、という点だ。これを解消するには、スポーツを通じて「スポーツマンシップ」を学ばせ、「リーダーシップ」を全員に習得させるしかない。「リーダーシップ」はリーダーだけが理解していればいいものではない。リーダーシップはフォロワー達によって決まるからだ。リーダー以外のメンバーが「リーダーシップ」を理解しない限り、「リーダーシップ」は発揮できない。「メンバーによる足の引っ張り合い」でつぶされるリーダーが、我が国には何と多いことか!これがリーダーシップ教育の不在から来ているのは明らかだ。「スポーツマンシップの普及」とは、学校の「スポーツ教育」を通して、「覚醒」した人材を育成し、社会に供給しようという試みに他ならない。

 

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日時: 2013.09.17|