連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.52 尊重とエンパシー 2013/0920

 「スポーツ授業」を小学校段階で開始するのには根拠がある。「異者と折り合う」ために必要な能力は、どうも前頭葉にあることが脳生理学的に証明されている。この「哺乳類の中でも人間にしか無い脳」は、大体10歳で細胞の数が決まる。11歳以降は増えない。そして、それからの10年間で機能が決まる。30歳から「人付き合い」が良くなる人は、脳生理学的にはあり得ないのだ。

 「異者と折り合う能力」は、国際的にも重要度が増している。2001年にOECDの教育指針の変更があり、21世紀に必要な能力として「エンパシー」が挙げられ、有名なPISAというOECDの学習到達度調査でも触れられている。「シンパシー」は日本語では「共感」だ。これは同調による共感なのだが、「エンパシー」は「同調できない」他者、つまり「異者」に対する共感のことだ。これには「9.11」の同時多発テロが大きな影響を与えている。「イスラム対キリスト教」の対立が背景にある。

 東西冷戦構造がなくなり、「資本主義対社会主義」というイデオロギーの対立が無くなった後に、「文明の対立」(byハンチントン)がそれに変って主要な紛争の種になっている。「アラブ分明vs西欧文明」は最終的には分かり合えない。なぜなら原理的な対立だからだ。どこまで行っても、お互いに相容れない同士だろう。しかし、それを武力対立にしない方法が求められている。「異者」との共存が図られなければ、国際社会はいつまでも不安定なままだ。そこで注目されたのが、「分かり合えない者同士が共感しあう能力」としてのエンパシーである。「言う事には賛成しかねるが、なぜそういう意見を持ったかは理解できる」はずだ。

 根本は、立場が違うもの同士が尊重し合えるか、である。立場が違えば意見が異なるのは当たり前だ。その立場の違いを理解しあうのが、スポーツの根本原理、スポーツマンシップに他ならない。「スポーツが成立するための不可欠な要素、「相手」「審判」「ルール」の3つを尊重せよ。」この原理がなぜ成立するか。それはスポーツがプレー(Play)されるものだからだ。プレーとは遊びである。遊びは「楽しくなければやる価値がない」「遊びたい人達」が集まって、「楽しく遊ぶための決め事を定め、「ルール」とした。「ルール」も「審判」も、そして「相手」も、でおれ一つでも欠いたら、楽しく遊べないのだ。これが分かれば、ルールを破ったり、ごまかしたりすることが如何に無意味であるか、が理解できよう。この原理を5年生の最初の授業で説明しておくのだ。

 スポーツマンシップの正しい理解が一般的に広まれば「体罰」も無くなる。大阪の桜の宮高校で自殺したバスケット部の主将には、逃げ場が無かったのだろうと思う。部活動にも、学校生活にも、対外試合でも、家庭にも、どこにも「スポーツ」が無く、逃げる場所が無かったのだろう。スポーツには「敵」はおらず、「相手」への尊重がスポーツでは一番大事なんだよ。「楽しくなければスポーツとは呼べないのだよ、と誰かが教えておけばなあ、と悔やまれる。実は、私の元に大阪市の教育委員会と、東京都の教育委員会からの両方から接触があったことを報告しておこう。いずれも2013年の3月だった。「知事選出馬」によって、東京都の委員就任は辞退せざるを得なかったが、静岡県で「スポーツマンシップ教育」を実施し、教育モデル県にするという意図があったのである。

 

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日時: 2013.09.20|