連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.58 「浜岡原発再稼働」問題 (「県民投票」は妥当か?) 2013/1001

 「3.11」以降、「原子力発電所」の安全神話は崩壊し、原発がある自治体では「再稼働」問題が大きな問題になっている。静岡県にも「浜岡原子力発電所」が存在する。糸魚川・静岡構造線の真上に「原子力発電所」を作る、等という今から考えると常軌を逸したとしか思えない判断を先人達はしてしまった。(無知は怖い!)

 個人的には、「浜岡」の再稼働はあり得ない、と個人的には思う。これが常識的な判断だろう。が、コトがコトだけに、その決断に至るには適切なプロセスが必要だろう。

 言うまでもなく、「原子力発電所」は、極めて専門的な知識を要す問題だ。従って、まずは政府が行っている専門家による検討の結果を待つべきだと思う。全てのカードがテーブルの上にのっていない以上、最終的な判断を下すべきではないと思う。それは責任ある大人の対応ではないだろうか。こういう問題は情緒的に流れやすいが、政治家がそれに同調するのは非常にマズい。情緒に流れやすいことは、政治的に利用しやすい事でもあり、実に危険なのだ。(確かに、これまでの経緯から、「専門家」に対する不信感は拭えない。専門性の罠」という問題に対処するのも政治の役割だろう。)

 この手の政治問題を情緒的に利用しやすい筆頭は、「領土問題」であることは歴史が示すところ。近代国家は「国民国家」を前提に成立した。「国民」とは、前述したように理論的には証明しきれない属性だ。そこを「ナショナリズム」という意識で補完している。ナショナリズムが論理ではなく「情緒」に結びつきやすいのはそういう背景があるからだ。そういった例は枚挙に暇がない。次が「人命」の問題。かつての福田総理が、「人一人の命は地球より重い」と意味不明なことを言ったが、これも「人命問題」を情緒に訴えた典型だった。「領土」と「人命」を大上段に振りかざす議論には、疑いを持って、一旦ちょっと身を引いて、客観的に観る努力が必要だと思う。

 原発問題の「県民投票」も実はかなり情緒的な色が濃い。政治判断との論理的な整合性がとりにくいのだ。

 第一に、「原発事故の被害」が行政区という区分に馴染まないこと。浜岡原発から100kmの同心円を描くと、東は熱海や伊東を含み、ほぼ静岡県をカバーする。ところが、西に100km行くと浜松はおろか豊橋も越え岡崎に達する。となると、「原発再稼働問題に関する県民投票」において、「伊東市民は投票権があるが岡崎市民には権利がない」という事態となる。この不平等をどう正当化するのだろうか?岡崎市民は納得するのだろうか?

 「県民投票は最終決定ではない。飽くまで住民の意思表明だ。結果ではなく、決定過程に住民の意思が反映されていないのはおかしい」と仰る県民投票推進派の方がいた。(であれば、県民アンケートと何処が違うのだろうか?)では聞くが、「決定過程に日本国民及び日本政府の意思が全く反映されていない“日本国憲法”」は否定されるべきだろうか?私個人は憲法改正論者である。国民の意思が決定過程に反映されていないのは、オカシイと考えているからだ。しかし、県民投票推進派の多くは、いわゆる「市民派」が多いように見受けた。彼らに「日本国憲法の改正の可否」を問うてみたい。「もちろん、改正すべきです」と答えてくれるなら論理矛盾はないが、「いいえ」なら、行動原理に論理的一貫性を欠き、「情緒的」だと思われても仕方が無いだろう。

 私の結論は、「県民アンケート」を実施する。そこで県民の意思の有り様は分かるはずで、それを県知事は責任を持って国に伝えるべきだと思う。

ここまでで連載の第2部「政策」は終了する。第三部「知事選」がスタートするまで、しばらくのインターバルとなる。ご容赦を。

日時: 2013.10.01|