連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

天皇と東大

立花隆の「天皇と東大」が文庫化されている。全4巻の大作だ。これまでFBで言及していたが、長いのでBlogが適当だろう。

「知事選奮戦記」は最終章の第3章の前で中断している。(終了ではない。)その間に、読書録をこのBlogに載せることにする。

最終の第66章を読了。残りは補遺と文庫版のあとがき、のみ。

最終章で立花が明らかにしているように、この本のゴールは最初から昭和20年の8月15日。ポツダム宣言を受諾し、敗戦が決した「日本の一番長い日」だ。明治維新で日本史上でも数少ない重大な国体の変革を成し遂げだが、敗戦の日もそれに匹敵する国体の変革だった。前者は、日本の自発的な行為だが、後者は敗戦に伴う変革だ。維新からたったの70年で重大かつ本質的な変革がなされなかった理由は何か?もっと直截的に言えば、何を間違ったのか、を事実を検証して理解する試みだ。「確かに日本史としては学ぶし、日本が軍国主義に染まって、無茶な戦争に走った、のは常識だ。しかし、今ひとつ、しっくり行かない。「なぜ間違ったのか?」がちゃんと検証されていない、という印象が拭えない。

実際に、客観的かつ体系的な整理はされていないのだと思う。日本人は起きてしまったコトに陳謝はするが、検証はしない。「起きてしまったコトをとやかく言うのは嫌」な国民性なんだろう。しかし、検証がなくて反省は不可能だ。「反省」がコトバとして遊離する。それは福島原発問題で我々が、将に今日て的な問題として感じていることだ。他人のことにはそう感じるが、では振り返って自分のことはどうか?事後の検証がこれほどされない国も珍しいのではないか?2002年のWカップの開催前に、いろいろなことがビジョンとして、あるいは目標として提示された。しかし事後にそれが「どこまで達成されたのか?」「達成されなかったコトに「ついては、なぜか?」が検証されただろうか?(この点については、RIETIの研究員時代に実証調査をした。

例えば、「Jリーグの2シーズン制への移行」措置である。これは現状について何らかの問題意識がある故の制度変更だろう。しかし、これまでの経緯について「検証」はされているのだろうか?動員が問題であるのなら、減少の原因は何か、調査したのだろうか?寡聞にして聞いたことがない。この因果関係の把握を疎かにして、新しい制度に移行するのは無謀ではないのか。

かく言う私が、知事選の事後検証が必要だと思って Blogを開始すると、某筋から「過ぎたことをとやかく言うな」との声がかかる。これらは全て同根だと思う。

「天皇と東大」の話に戻る。昭和20年に戦局がいよいよ絶望的になった段階で、南原繁を中心とした帝大(東大)教授有志が和平工作に動く。無論、秘密裏に。全く知らなかった。南原は。当時、法学部の学部長で、戦後の初代総長。吉田茂との論争の中で、「曲学阿世」と罵られたのは有名。ポツダム宣言受諾直後に、学徒出陣から戻って来る学生に対するメッセージを新聞に載せた。敗戦のショックで全国民が混沌のさなかにあって、南原先生の「これから新しい日本を築くため」の宣言は、大きなインパクトを与えた。立花は、ナポレオンに占領されて茫然自失のドイツ人に、「ドイツ国民に告ぐ」と演説したフィフィテになぞらえている。フィフィテはベルリン大学の初代学長だ。かつて、大学人という存在が、社会に対して教育以外にも大きな機能を果たしていたことが偲ばれる。(南原先生のご子息は、私の駒場時代のクラス担任だった。ベーメの神秘学が専攻で、ちょっと浮世離れしていた先生だった。)

南原繁が、敗戦受け入れの混乱が終えたら、天皇が自主的に退位するだろうと予測していたし、退位すべきだと考えていた。今上天皇自身もそう考えていたそうだが、「退位の規定」が憲法になかったのと、どうも吉田とマッカーサーが今上天皇の退位が招く混乱を嫌って反対したようだ。結果的に、「責任をとらない日本社会」につながったのではないか、と立花は指摘する。異義なし。

終戦を待たずに夭折した河合栄次郎も凄まじい。反マルキストだったが、軍国主義の対等に抗するには共産主義とも手を結ぶべきだ、という考えを持つ。これは世界的にはコミンテルンの人民戦線戦術と重なる。当然、治安維持法の対象となり、告発される。獄中の河合の「今はできるだけ厳しい処断を受けたい。厳しいければ厳しいほど、敗戦後の発言力が増すだずだ」という近親者への発言が残っている。凄まじい、の一言だ。

 

日時: 2013.11.04|