連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

「豊かさ」を考える

バーンスタインの「豊かさの誕生」(日経新聞社)は生涯の読書ベスト3の一つになるだろう。読んだのはもう10年くらい前かなあ。

ここで提起された問題は、「豊かさ」だ。人類は誕生から「豊かさ」を求めてきたと言えるかも。いや、言ってしまおう。これを公理とする。でないと話が始まらない。

ただ「豊かさ」の定義は時代とともに変化している。そして、我々は今、豊かさの再定義をすべき時に来ている。これがバーンスタインの主張だ。

「選択という幻想」と「資本主義の終焉と歴史の危機」を読んで、「豊かさの再定義の必要性」を再認識した。この両書の主張の共通点が、まさにそれだったから。

「選択という幻想」において、著者のシュムークラーは、「市場には自由な選択がある」ということが幻想である、と指摘する。市場は参加者各人が自由に競争し、それが結果的に全体の成長を促進する、というのは幻想である、というわけだ。

「成長」は無論のこと「目的」ではない。本来「豊かさ」という目的達成のために「成長」が必要なのだ。これが自明のこととして従来されてきた。

そもそも「近代」とは、「合理性」「進化/進歩」「啓蒙」という3点セットのパラダイムで成り立っている。政治的には1648年のウエストファリア条約で、「国家」が国際間の調整の主体として登場し、定着したところから始まる。その後、主体はフランス革命とナポレオン戦争を経て、「国民国家」に進化する。

国民国家の基盤である「国民」とは、「合理的」にモノを考えて行動し、向上心を持って常に「進歩」を指向し努力する人物を理想とする。この思想が「啓蒙」されるのだkら、「国民国家」は「近代」の基本的単位に最も相応しい形体の精度だ。

突然に結論を言うが、「資本主義の終焉」で水野さんが出す結論も、シュムークラーの結論も、実は同じで、「競争」=「進歩」=「成長」というパラダイムの否定である。つまり「近代」を否定し、そろそろ「ポスト・モダン」に行くべきだ!なのである。

無論、この結論は一見非現実的である。が、パラダイム変換は、現状から見て現実的であるはずがない。

しばらく、この非現実的なパラダイムシフトについて、このBlog 」で考察を試みたい。

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日時: 2014.10.09|