長沼健さん、ご逝去
長沼、元サッカー協会会長が急逝された。
ご遺族のご意思で、告別式は身内のみで行うとのこと。
ご逝去を痛む場所を失ったので、Blogで個人のご冥福をお祈りする。
健さんとの出会いは四半世紀も前になる。
当時はサッカー協会の専務理事。平木さんが常務理事だった。
長いお付き合いになったが、
専務時代には本当に仕事をご一緒させていただいた。
ので、当方にとって健さんは最後まで「長沼専務理事」のイメージが強かった。
名専務理事だった。
仕事はできた。決断は早く、的確だった。
冷静だったが、熱かった。
サッカー談義をした記憶は無いが、
ある年のキリンカップのポスターのキャッチコピー案を検討している際、
没になった「球は天才だ」という作品に
「これ、分かるんだよなあ。いいんだけどなあ・・」とおっしゃっていただいた。
当方の一押し案だったが、「球は天才だ」の感覚を理解していただいたことが嬉しかった。
あの頃は5月の連休中に国立競技場で協会のスタッフがゲームをした。
当方も助っ人で参加。
相手は望月三起也さん率いる伝説の「ミイラ」。
CFは明石屋さんま。ウィングに柴田恭平。
フジテレビで流したニュース映像は、我が家の家宝だ。
当方のCFは健さんで、左サイドからセンタリングしたパスを健さんはワントラップ、シュート。
惜しくも、サイドネットにはずした。
左腿をたたいて悔しがった健さん。
思えば、当時の健さんと同じ歳になってしまった。光陰矢の如し。
88年だったかな。マラドーナのいるナポリをゼロックス杯で招聘。
ナポリのGMはモッジだった。ユベントスで八百長を仕組んだGMだ。
交渉時から問題も多い大会だった。
公式練習が、雨天で室内になったのだが、ナポリは納得せず、秋津のグランドに。
国立の室内に集まったプレスに説明に行ってくれたのが長沼専務理事。
問題は起きても、健さんが登場すると収まった。
独特のリーダーシップがあった。
企業にいてもトップに行った人だったろう。
Jリーグ立ち上げの際、博報堂が支援した。
電通は「非現実」として距離を置いた。
「非現実的」と判断した情報の一部が健さんからだった。
後から考えると、健さんのバランス感覚だったと思う。
結果論だが、大正解!と言わざるを得ない。
おかげで当方は戦犯になってしまったが、その後のサッカー界のためには
博報堂を選んだのは正しい判断だったと思う。
冷静で冷徹な一面も持った人だった。
Wカップ招致のため、94年にサッカー協会出向。
2年間、同じ釜のメシを食うことになった。
と言っても、健さんはスポークスマンとして、ほとんど海外巡業で顔を合わしたことは数回だった。
旅芸人も斯くやと思うばかりの、旅から旅へ。
よく健康を壊さなかったと思う。
Jリーグができた以上、
Wカップの招致で自分の役割にピリオドが打てると思っていたのではないかな。
これは他言したら叱られるかもしれないが(健さん、許してください)
FIFAでのプレゼンの際、健さんはご自分の被爆者手帳を見せる予定だった。
「日本の復興は世界のおかげ。
是非、世界の恩返しをしたい。
そして、平和だからWカップが開けるというありがたさを
日本開催で世界に発信したい」
と語る予定だった。
死に場所と定めていたのかもしれない。
しかし、プレゼンの前に共催が決定。
それだけに、決定の後、
韓国のチョン会長と握手している際の強張った顔をTVで直視できなかった。
楽しかったこともある。
97年のジョホールバル。前日、延長で岡野がゴールを決め、ついに悲願の初出場。
帰国のJAL便が一緒だったようで、飛行場でバッタリ。
当方は両手に荷物だったが、こっちに気づいて健さんから握手を求めて来てくれた。
「加茂で行けなければ止める」と言って止めなかった後だけに、
喜びは一入だったろう。
満面の笑顔とはこのことか。
隣の岡野さんと握手している、半ズボンの中年男性は一体何者か?と
周囲には訝られていただろうが。
スポナビを設立し、電通を退社した後に埼スタでお会いした。
確か、場長をされていたはず。
「サラリーマン失格で、会社やめちゃいましたよ」と言ったら、
(無論、半分はジョークで)
「何を言うんだ。君は我々の仲間だ。失格なんて言うな。君の仕事は皆が知っているよ」
と真剣に怒られた。・・・返す言葉が無かった。
自分の社内でこんな評価を聞いたことなど無かった。
・・今はただご冥福をお祈りするだけだ。
健さん、長い間、本当にご苦労さまでした。

