●「選ばれし民」ユダヤ人と、「神々の沈黙」
近年、粘土板に刻まれた楔形文字の解読が進み、古代バビロンでは放浪者を「ハビル」と言われており、砂漠の難民のことも指していたいたことが判明している。その「ハビル」が後に「ヘブライ」となった
ヘブライの民の物語は、旧約聖書として現代に伝わっている。旧約聖書は、歌や説教や叙事詩から成る語り継がれた壮大な民族の歴史でもある。それも一つの歴史ではなく、複数の歴史や出来事が、様々な時代や土地から集められて、一つの物語として再構成されたものだと考えられている。
例えば、有名な「ノアの洪水」は、古代シュメールの碑文を一神教的に焼き直さしたものだと判明している。
ところで、人間が名前を持ったのはいつのことだったのか。
「神々の沈黙」の中で著者ジェインズは、「人が名前を持ったのと、墓を作り始めた時期がほぼ同時期である」と指摘している。それまでは死体は他の動物同様、そのまま放っておかれたのだろう。
旧約聖書の「創世記」の冒頭は、通常「初めに、神は天地を創造された」と解釈されているが、ジェインズはこれを「神」と訳すのは後世の意訳に過ぎず、直訳すれば「初めに、声は天地を創造した」となるそうだ。
ここで「声」と言うのは、現代では「幻聴」と呼ばれるものを指す。
現代では、幻聴が聞こえる人は統合失調症の病人と認定される。しかし、歴史上、神の声に従った者は古今東西、少なくない。例えば、ジャンヌ・ダルクは「神のお告げ」に従って行動し、フランスから異国の軍隊を追い払ったのだが、最後は魔女として処刑されている。
ジェインズによれば、紀元前4千年前後まで人類は右脳で聞く「声」に従って行動していたはずだ、とのこと。それがいつしか、右脳ではなく左脳によって考え、判断し、行動するようになった、という。
この仮説のもとに歴史を再検証したのが「神々の沈黙」という本。
600ページを超える大著で、1980年代に出版され、大きな議論を巻き起こしたが、日本で翻訳されたのは、2005年になってのこと。
ジェインズの出発点は、「人はいつから自意識を持つようになったのか」という疑問だ。
これを脳生理学的に、左脳の言語野の機能との関係で捉えたのが画期的だ。
例えば、幼少期に左脳の言語野を損傷した場合、右脳に言語能力が補完機能として回復することが判明している。であれば、右脳にも元々言語機能に相当する機能が存在していたはずだ、と推論した。
これは、コカインという植物性の麻薬が、なぜ動物である人間の脳に効き、「気持ちが良くなる」のか?という問題意識によって、「人間の脳の中に、似たような快感を覚える物質があるのではないか」という推論を持ち、検査した結果、エンドルフィンのような脳内物質が発見されたことを連想させる。
「ものぐさ精神分析」を書き、「唯幻論」を唱える心理学者、岸田秀の「人間は本能が壊れた」という主張とも通じている。(実際、「神々の沈黙」出版を機に、季刊「大航海」で岸田は三浦雅士とこの点について対談していた。ジェインズの主張と岸田の共通点を引き出そうとする三浦に対し、「そんなに大騒ぎするほどの事ではない」というそっけない対応の岸田がかみ合わず、対談の場のおかしな雰囲気が伝わってきた。)
岸田の「本能が壊れたために、人間は言語による何がしかの行動規範を設定せずにはいられない」という仮説は、ジェインズの「幻聴を聞く右脳の機能が退化し、左脳の言語野が機能し始めたことが人間の文明化のスタートだ」という仮説は、確かに同じことを別の角度から論じたものとも読める。(「初めにロゴスありき」)
かつて、右脳が現代の言語に代替する機能を果たしていた時代、人間の心は「神の声(幻聴)」と、それに「従う人間」の2つに分かれていた、とジェインズの仮説は進む。それを彼は「二分心」と名付けた。「二分心」時代の人間は、右脳で聞く神の声に従っていれば良かった。
旧約聖書の「モーセ五書」が編まれたころに、人は主観意識を持ち始めたので、同時に「神の声」が聞こえなくなり始めた。そこで失われた「二分心」時代を懐かしみ、悲嘆する心情が「宗教」の始まりだと、ジェインズは述べている。
確かに、こう考えると、旧約聖書の及ばない我々日本人を含むアジアでも、「神」という概念を持ったことの根拠の説明がつく。
人類の最初のころは、集団も小さく、判断すべき事柄はそう多くはなかっただろう。しかし、集団が大きくなるにつれ、判断すべき事柄が増加すると、毎回一々「神の声」を聞くのではなく、あるケースに対応する「神の声」を記録しておく方がはるかに便利だ。これが文字の誕生の契機だとジェインズは主張する。従って、文字は最初、「読む」ものではなく「(声を)聞く」ものとしてあったはずだ。そして残っている古代文書から、文章には「聞く」という動詞が使われいたことをジェインズは突き止めた。だから創世記の冒頭では、「初めに、声は天地を創造した」と記されているのだ。更には、法典で有名なハムラビ王の指令文書において、「私」という主語ななく、主語が常に「ハムラビ王は」という三人称になっていることから、当時はまだ自分の「主観」が存在していなかったと推論する。
しかし、文字はそのうち読まれるものとして、独自の機能を持つようになる。「聞く」ための文字は、その後、漢字を唯一の例外として全て利用されなくなった。漢字だけが「聞く」から「読む」に対応できたのだろうか。文字を読むようになったことは、左脳の言語野の機能を進化させ、その代償として右脳の機能の退化を招いたのだろう。つまり「神の声」が聞こえなくなっていたこと。これは数千年の間に徐々に進行していった。その途中経過として「神託」という段階があった。古代ギリシアのデルフォイの神託に代表されるように、神託という「神のおつげ」を聞く風習は世界中に存在していた。これは「神の声」を聞く行為が日常ではなく、特化され、専門化されていった、と解釈できるわけだ。
ジェインズの解釈によれば、イエスがユダヤ教の改革者として登場した意味も一変する。「二分心」を失った人間に、意識を持った新しい宗教が必要となったからなのだ。意識ある新しい人間は、モーセの十戒のように外から行動を規定されるのではなく、内側、つまり自分の意識として行いを改めなければいけないのだ。これがキリスト教誕生の真の意味だと言うのだ。
以上、連休中の時間つぶしのために。




