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      <title>スポーツ総合研究所 Blog</title>
      <link>http://www.sports-soken.com/blog/</link>
      <description>スポーツ総合研究所のウェブログです。
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      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
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         <title>シティー快勝！にホッ</title>
         <description>眠い目をこすりながらシティーを応援。
先週おのマンチェスター・ダービーを制し、
気が緩むかという危惧は杞憂だった。
まあ、今一番ノッテいるニューキャッスルが相手だから
気合は入るな。

それにしてもニューキャッスルのディフェンスが堅い。
前半は相当てこずる。
前半の中盤までボールポゼッションが６：４だったのが、
終わってみればほぼ互角。
シュート数も8本と同数。

後半のヤヤ・トゥーレの巧みなシュートで先制。

こういう展開で、間際に追いつかれる場合は少なくない。
が、残り5分で、まだこれだけ走るのか！という脅威の速効！
左から再度バックが全速で上がり、
右からの再度チェンジを受け、
相手のまた抜きパスで、またもやヤヤが決める！
3人の５０ｍ全速での駆け上がりが勝因だ。

いよいよ次週、最終節で42年ぶりのリーグ制覇か！</description>
         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/05/post_693.html</link>
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         <pubDate>Mon, 07 May 2012 09:34:24 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>裏切りのサーカス</title>
         <description>日比谷で「裏切りのサーカス」を観る。
エスピオーナージの大巨匠「ジョン・ルカ・レ」の名作
「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」
の映画化とくれば、ミステリ・ファンとしては観ないわけにはいくまい。

スマイリー・シリーズの中では一番売れたんじゃなかったかな？
（1位は「寒い国から来たスパイ」だったかな？）

いい映画だった、と言えたらなあ。
画面もシブイし、出てくる俳優が脇役アールスターズみたいなシブさ。
で、何も文句は無いんだが・・・。

考えたら、ル・カレ作品で「面白い！」と唸ったことないから、
ま、仕方がないか。

夜は、98年のドイツ作品「Knock On The Heavens Door」をＤＶＤで堪能。
こっちは文句なくオモロー、である。

ミステリ漬けの一日だった。
至福。</description>
         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/05/post_692.html</link>
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         <pubDate>Sat, 05 May 2012 21:55:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>見知らぬ乗客</title>
         <description>パトリシア・ハイスミスの処女長編「ミスらぬ乗客」読了。

30歳ひなるかならないかの時、1950年の作品で、
映画化権をヒッチコックが買い取り、チャンドラーに脚本を書かせ、
戦後最初のヒッチコックのヒット作となった作品の原作だ。
これが、アランドロンの出世作として知られる名作「太陽が一杯」に繋がる。

交換殺人」をテーマにあした最初のミステリーとしても知られているが、
他のハイスミス作品と同様、プロットやトリックにではなく、
主人公を中心とした人物の心理描写が凄い！

いやあ、やっぱりミステリーはいいですねえ。
それでは、またお会いしましょう、サヨナラ、サヨナラ・・・
と言いたいところだが、終わり方が本当に救いがないんだよなあ。
これもハイスミスの特徴で、読者がそれを覚悟の上で読むように、ね。</description>
         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/05/post_691.html</link>
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         <pubDate>Sat, 05 May 2012 16:23:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>大学の人材育成についてー連載-最終章　付属資料</title>
         <description>最後に筆者が講義する「スポーツマンシップ論」のシラバスを参考までに末に記す。


多摩大学「立志ー１：スポーツマンシップ論」　講義シラバス　（2012年度）

第1講：「スポーツマンシップを理解する」意味と、本講義の成果の定義
概要：受講の意義を理解する
第2講：　スポーツマンシップを学ぶ「当事者性」（本講義の「受講資格」）
概要：受講の「覚悟」を自問する（「当事者意識」は受講の当事者能力の前提）
第3講：スポーツマンの定義：小学生用「スポーツマンシップ授業」を観てディスカッション
概要：「スポーツマン」の定義を試みる
第4講：「当事者意識」と「当事者性」
概要：「スポーツマンシップ」を理解せずにスポーツするのは可能か
第5講：「（近代）社会」の論理　～「原理／原則」と「ルール／規則」「法律」
概要：「近代」「社会」の誕生と、「スポーツ化」の関係
第6講：これまでの整理（学生の質問を検討する）
概要：「良き社会人」とスポーツマンの関係を歴史的な文脈で整理する
第7講：身体と頭脳の可逆的因果関係
概要：スポーツマンシップは、思考や倫理でなく、行動が伴う
第8講：「役に立つ」となぜ気分がいいか？～「自己満足」についての考察～
概要：現在の人類に共通な遺伝子の特異性
第９講：スポーツにおけるルールの存在意義 （なぜルールはあるのか？）
概要：スポーツでルールを学ぶ意味
第10講：スポーツの世界化（国民国家と国民教育とナショナリズム）
概要：スポーツの世紀「20世紀を振り返る」
第11講：スポーツの大衆化　（大衆社会の出現とスポーツの社会化）
概要：スポーツの大衆化とは何か？
第12講：スポーツの大衆化－2　「世界化とナショナリズム」 
概要：ナショナリズムの20世紀にスポーツが世界化した理由
第13講：自分にとっての「スポーツマンシップ」（プレゼンテーション＆ディスカッション）
概要：スポーツマンシップは自分の「志」達成に必要か
第14講：スポーツマンシップと「尊重（Respect）」
概要：自分の「志」で社会は良くなるか？

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         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/05/post_690.html</link>
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         <pubDate>Tue, 01 May 2012 08:34:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>大学の人材育成についてー連載-最終章　その３</title>
         <description>　これまでの連載における議論で分かるように、「スポーツマンシップ論」の講義は、受講者を良き社会人に導くことを目的としている。
　そのためには、「良き社会人」として生きることの意味と意義を理解させることが重要であり、スポーツという身近な存在から言わば哲学的な問いに向かわせることが可能なのである。これが世界でスポーツが認められる教育的価値だと言えよう。（哲学の祖であるアリストテレスによれば、その師であるソクラテスは、「ただ生きるのではなく、いかに善く生きるかが大切である」と述べたそうだ。これが哲学の原点である。また、アリストテレス自身は「政治学」の中で、「（人は）生きるために生まれたが、本質的に善く生きるために存在する」と言っており、これは西欧の政治学における原点とみなされているのである。）

　西欧世界では、20世紀末になって「ポスト・モダン」が言われるようになっている。言うまでもなく、これは「近代の後」を表す言葉であり、近代の限界を迎えた西欧が次のパラダイムを模索していることを意味している。（最近では大沢真幸を始め）多くの社会学者が指摘するように、20世紀は、西欧発の「モダン（近代）」が世界化した世紀である。「モダンの現象化」を支える制度的枠組みの基本が「国民国家」であり、「国民国家」を構成する「国民」の育成を担った「国民教育」に重要な地位を占めたのがスポーツである以上、20世紀におけるスポーツの世界化は必然であった。
　他方で、我が国は西欧的な意味において「モダン」に達しているだろうか？甚だ疑問である。「社会」という概念も西欧のモダンから生まれたものであり、その社会を構成するメンバーは、言うまでもなく「近代人」である。ならば、「近代人＝自立した個人」の育成に成功していない日本において、「モダンな社会」などというものが成立していると考えることは、そもそも（モダンな意味で）非合理的である。
　こう考えると、「社会が要請する人材及び人材育成」というテーゼ自体が我が国において成立するためには、根本的な問題が横たわっていることが明らかになる。確かに、経済的には西欧先進諸国と肩を並べるほどになったが、それは経済発展を優先し、人材育成を疎かにした結果であると言わざるを得ない。この結論は、現在の閉塞感を生んだ根本原因が奈辺に存在するかを示唆している。「経済一流、政治二流」と言われる我が国であるが、その根本原因を探れば、「人材育成二流」であり、従って「二流社会」であり、それが「政治二流」に帰結しているという構造を見るのは、それほど牽強付会なことではないだろう。
　我が国が、とりあえず一旦「真の社会」の確立を目指すために、西欧諸国が既に20世紀に実施し、実を挙げてきた「スポーツによる人材育成」を、遅ればせながら採用することが、我が国固有の21世紀的課題なのであるはずだ、と筆者は考える。それは第一に「人災」を避けるための国家的なリスク・マネジメントでもあろうし、第二に国際社会において経済規模に相応しい地位を得ることにもつながるはずである。
　「国際的な地位」の獲得というのは、決して面子の問題ではない。「９．１１」以降にハッチントンが指摘した21世紀的な「文明の衝突」という現実の中で、対立のどちらにも与しない中間的な立場で、仲介者として、あるいは調停者としての役割を引き受ける存在、組織あるいは国家が、いずれにせよ必要になるであろう。「キリスト教対イスラム教」に代表される宗教的な原理的対立であるなら、実は原理的な対立を好まない日本の文化的な対応に、可能性があるのではないだろうか。これまでの本連載における議論を全て否定するようなことを述べるようだが、実を言えば筆者は、「日本という文化土壌において、アングロサクソン的な自立した個人」の確立は、恐らく無理ではないか、と考えている。そして、そこに我が国が「原理的な対立の中間項となり得る可能性」という、明らかなパラドクスを見るのである。（「我が国固有の」と前記した点が、ここにある。）要約して述べるなら、「モダンを目指して、果たせない日本に、ポスト・モダンの可能性を見ている」のである。
　以上を整理し、今日、我が国に求められている人材のモデルを戦略的に考えるなら、「自己客観化」「論理的思考」「コミュニケーション」「勇気」「目標／課題設定」等の能力の修得を早急に考えるべきであろう。そして、これらの能力は、知識として知っているだけでなく、訓練（トレーニング）により「身体知」としての習得が必要なのである。スポーツが有効なトレーニングの場を提供できると考えるのだが、それも「スポーツマンシップ」の理解があって初めて成立するのである。
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         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/05/post_689.html</link>
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         <pubDate>Tue, 01 May 2012 08:23:39 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>大学の人材育成についてー連載-最終章　その２</title>
         <description>●	「スポーツマンシップ教育」導入による「人材育成」教育の可能性：

　筆者は多摩大学（後期）と立教大学（前期）において、「スポーツマンシップ論」の講義を担当している。（立教大学における講義名は、全学カリキュラム「スポーツと社会」）
講義を開始するにあたって、次の3つを質問することにしている。
Ｑ１．「あなたにとって、良い友達となる人の条件／能力」は何か？
Ｑ２．「（一般論として）能力の高いビジネスマンに必要な能力」は何か？
Ｑ３．「スポーツマンにとって必要な（体力以外の）知的能力」は何か？

　これまでの論から分かるように、3つの質問の答えは同じものになるはずである。
　この事実から、「なぜ同じなのか」を考えさせる。それを理解するには、「スポーツ誕生時のイングランドの社会背景」を理解することが必要となる。そして次に、「なぜ世界の片隅にあるイングランドで誕生したスポーツが、世界化したか」を考えさせる。それを理解するには、「良き社会人」と「良き国民」の関係と、国民国家では国民の育成が必須であること、そして20世紀が国民国家（の世界化）の世紀であることを知らなければならない。そして、講義の最終段階で、「スポーツマンになる意味／意義」を理解させる。それは、社会を構成するGood fellowになることである。そこで問う。「あなたはスポーツマンになりたいか？なるべきか？なり得るか？なるためには何が必要か？」と。

　平たく言えば、スポーツマンシップを理解する事は、「良き社会人」「良き世界人」としての生き方を認識することである。その理解は、単なる学問的な理解で足りるものではない。（従って、試験問題は「知識」を問うだけでは不十分である。）スポーツマンになるには、「意志」と「行動」が必要である。（言うまでもないが、行動には常に「勇気」が必要であり、極めて倫理的な側面を持つ。）「知識」のある者をスポーツマンとは呼ばない。「知的能力」のある者も同様である。スポーツマンには、「体力」と同時に「知識」「知力」「知性」の3つの知的能力が求められるのである。（「知力」とは、「知識」を現実に活用する「スキル」のことである。「知性」は「原理」を理解することで得られ、極めて「倫理」的である。「知性」の伴わない「知力」は社会のリスクを増大させる。これは「ホリエモン」事件を想起すれば理解しやすいであろう。）

　選手宣誓で使われる「スポーツマンシップに則る」ことの意味が、ここにおいて明確になるはずである。「スポーツの原理を理解し、ルールと相手と審判を尊重し、実行する覚悟」を問われているために、競技を開始するにあたって、選手は宣誓するのである。（「原理」を理解するために「知性」が要求される。）従ってIOCも「オリンピックの開会式では必ず行うべきだと規定した」崇高な行為となるのである。
（注：「オリンピック憲章（2003年7月から有効）」の第5章　Ⅳ．プロトコール　69．開会式及び閉会式の規則69附則細則：１開会式において以下の記述がある。
１．１２：開催国の競技者による選手宣誓（右手を挙げて）「・・・真の意味でのスポーツマンシップにおいて、スポーツの栄光とチームの名誉のためにこのオリンピック競技大会に参加することを誓います。」
ルールを守ることだけでは不十分である。フェアプレーも同様に不十分なのである。）
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         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/05/post_688.html</link>
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         <pubDate>Tue, 01 May 2012 08:20:08 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>大学の人材育成についてー連載-１２（最終章その１）</title>
         <description>§．新しいパラダイムに対応する人材モデルの模索

　第二次世界大戦後、日本は奇跡的な復活と経済復興を遂げた。その時の産官複合の協同体制は、所謂「55年体制」と呼ばれ、その基本的な枠組みは現在も引き継がれている。（21世紀になって、歴代の政権が「脱官僚」を標榜しているのは、この体制が残存している見事な証左である。）この「官僚主導」による「護送船団」の仕組みは、確かに戦後の復興期においては有効であったろう。しかしながら、官僚の能力は、「一定の枠組みの中で最も効率的な作業をする」ことで発揮される。決して「新しい枠組み」を構築するアーキテクトとしての能力は、官僚という存在に求められないのである。
　我が国が20世紀末に、所謂新しいパラダイムに直面していることは広く知られており、それは既にコンセンサスとなっていると言って過言でないだろう。新しいパラダイムに対応するプロセス自体に、将に新しいパラダイムが必要となるのだが、現状では従来の「箱モノ行政」的なアプローチを抜け出ることはできていない。東日本大震災への対応がその証左である点、前述したとおりである。

　●21世紀型の新しい世界（認識）に基づいた人材のモデル
　21世紀の礎石は、20世紀の人間によって形成される。20世紀の人材モデルは、これまで触れてきたように、わが国は近代的な人材育成に遅れをとっている。
　この遅れを回復するには、既に欧米で実践され、実績を積んだ「スポーツを通した教育」が最も現実的であろう。近代人のあるべきモデルは、「スポーツマンシップ」と言う言葉の中に凝縮されている。1975年当時のオクスフォード辞典では、スポーツマンの説明として、至ってシンプルにGood Fellowと記述されていた。Good Personでは無い点に注目されたい。つまり、「良い仲間」とは、社会における他者の存在を前提にしているのである。決して「求道者」的な個人的資質で完結したモデルを問題にするのではなく、仲間から信頼される人物を「スポーツマン」と規定しているのである。
　実は英語で、You are good sport .という表現があるが、これはYou are dependable（頼れる）を意味している最高の誉め言葉である。また、欧米において「リーダーシップ」や「ビジネスパーソンシップ」はほとんど「スポーツマンシップ」と重なっている。つまり、スポーツマンとは、体力のみならず、「知力」と「徳力」を備えた総合的な人格を備えた者を指すのである。（日本語の「文武両道」と、極めて近いと考えられる。）もっともそれは、決して驚くべきものではなく、そもそもスポーツの成り立ちを知れば、容易に理解できるところであろう。
　また、スポーツマンシップの核は、「尊重（Respect）」の念だというのも広く知られている。尊重とは、自分と異なる他者の価値／意義を認める思考のことである。構成メンバーが基本的に「同じ」であることを前提にした「共同体」と違い、社会の論理は「異質の他者によって構成されていること」を前提に成り立っている。従って、尊重の念が無いと社会は不安定にならざるを得ないのである。
　この点で、2000年にOECDが示した教育方針の変更は示唆的である。ここでは、「エンパシー」という能力の重要性について述べられている。日本語ではシンパシーと同じく「共感」と訳されるが、エンパシーの場合、「最終的には、全てを分かり合えない」ことを前提にして、「部分的に理解し、共感する」能力のことを指す。これは、言うまでもなく、「9.11」のテロの影響である。キリスト教とイスラム教の間に全面的な理解と共感は成立しにくいのであれば、どこか部分的に理解し、共存を図るべきだと言う思惑の現れである。これは、「21世紀型の尊重」と考えていいのではないか、と筆者は考えている。
　尊重は、相手と自分とを同列に置く。決して上下関係を強いない。スポーツでは、競技者及び審判が、「敵／味方／審判」というそれぞれが決定的に異なった立場でありながら、ルールの元で全員同列である。（恐らくスポーツにおいて「敵」という表現を用いるのは日本のみであろう。「敵」ではなく、正しくは「相手」である。）
　「尊重」という言葉は、単純なようで実は深い。そして、尊重するのは、それほど容易い事でもない。実際、「相手チームを尊重せよ」という原則が、守られていない光景に出合うことは決して珍しくない。対立している「相手」を尊重するためには、「状況認識」「自己客観化」など、高度に知的な能力を必要とする。そしてこれらの能力は実際に実行されなければ意味を成さない。（かつてアリストテレスは、「倫理」とは極めてPro-Activeな能力であり、実行されなければ意味が無い、と言った。そして、実行には「勇気」が不可欠である。）
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         <pubDate>Tue, 01 May 2012 08:12:38 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>大学の人材育成についてー連載-１１</title>
         <description>●わが国におけるスポーツと体育の混同の歴史：
我が国も明治維新を起こし、19世紀後半に「国民国家」を設立し、「国民教育」を開始した。初代文部大臣の森有礼によれば、国民教育の要諦は、「知育」「徳育」「体育」であった。特に「体育」には列強に伍するための軍事力強化に不可欠な「優秀な兵士」を養成することが期待された。
　ここで2つの点を指摘する必要があるだろう。第一に、「体育」が「知育」や「徳育」と区別されてしまった点である。これは、「スポーツ」と「体育」を区別する上で重要な相違点であり、両者の混同を誤りだと指摘する根拠でもある。第二は、「兵士」の養成という点である。スポーツの母国英国で、パブリックスクールに要請されたのは、「兵士」ではなく、「将校」の養成であった。ドラッカーによれば、「19世紀ビクトリア朝イングランドの繁栄は、植民地経営の成功によってもたらされ」「植民地経営の成功は、ミドルマネジメントの人材育成によって支えられていた」のである。確かに植民地経営は、現地の支店長、つまりミドルマネジメントが優秀でなければ行えない。現在と違って、電話も無いので、一々本国の決済を仰ぐのではなく、現地での適格な状況判断と決断が必要なのである。ミドルマネジメントは、軍隊で言うところの将校である。将校は判断／決断し、兵士は将校の決断/命令を忠実に履行する者である。こう見ると、当時の森の判断には整合性があると言うべきだろう。問題は、二度の世界戦争を経て、既に兵士の養成が国家の要請事項ではなくなっているにも関わらず、我が国では現在もなお、兵士の養成を目的とする「体育」を行っている点であり、「体育とスポーツの（半ば意図的な）混同」なのである。
所謂「体育会系」と呼ばれる人物像は、「組織に忠実であり、忍耐強く、体力のある者」と言ってもそれほど的をはずれたものではないだろう。確かに、敗戦後の復興期、及び経済成長期に企業戦士として猛烈な働きを期待されている時代は、「体育」の存続にも一定の意味はあっただろう。我が国は、明治期より約百年間、「西欧に追いつき、追い越せ」を暗に明に合言葉として、ひた走りに走ってきた。目の前に追いつくべきモデルがあり、フレームが既に明確な場合には、確かに有効な人材育成ではあっただろう。しかし、わが国は20世紀末には既に経済的には先頭集団に入ってしまい、その先に「追いつくべきモデル」が見出せない状況になり、事情は一変しているのである。

　クラレンドン委員会発足当時、プロイセンが最も進んだ中央集計的な行政組織を持ち、優秀な行政官／官僚を育成する制度を備えており、英国がこの点で危機意識を持っていた点、前回に指摘したが、実は、この点は我が国にも甚大な影響を与えている。
　国家創立後、初めての憲法を作成するために、欧州で約1年ほどの間、伊藤博文が遊学していた間に、当時在英の日本大使館勤務だった森有礼と会い、その見識の高さを買って、内閣発足時の初代文部大臣就任を依頼した。前述のように、森は「知育」「徳育」「体育」を国民教育の3つの要諦と定めている。つまり、森は「体育」の生みの親なのである。ここで1つの疑問が浮かぶ。森の外交官としての任地は、米国と英国である。そしてこの2カ国は、言わずと知れた「スポーツ大国」である。スポーツの母国、英国で文部大臣の就任を依頼された森は、何故、国民教育に「スポーツではなく、体育」を導入したのだろうか？単なる混同ではなかろう。その後の我が国の混同は、無知によるものであるが、聡明な森にその程度の単なる混同はないはずだ。
　以下は筆者の想像である。19世紀の英国が脅威を感じるほどの中央集権制度を備えたプロイセンであるが、クラレンドン委員会報告の「ゲーム」の項で、「我が英国とは違って、大陸では体操（ジムナスティック⇒ギムナジウム）を教えている」と触れられた「大陸の国」は恐らくプロイセンを指しているはずである。ここで、森は、英国より進んだ中央集権体制を確立していたプロイセン型の「体育」を選択したのではないか。そして、それが、どうも今日の「体育」の源流ではないか、と思われる。
　前述のように、森は「近代の知識を習得するためには、公用語を英語とすべきか」と米国赴任中に悩んでいる。事実、明治初期の大学で近代の西洋の知識を教える講師が日本人にいるわけがない。当然ながら全員が外国人教授であり、講義は全て英語で行われていた。そして、大学予備門の3年間のほとんどは、学生に英語の習得に費やされている。東京大学に入った時点で、後の夏目漱石も森鴎外（医学部）も、英語の講義についていけるくらいの英語力を持っていたのだ。公用語が英語になっていれば、現在の日本語はフィリピンにおけるタガログ語のようになっていたであろう。そして、「体育」ではなく「スポーツ」が学校教育に導入されていたら・・・。
　「タラ、レバ」は、歴史を学ぶ際の楽しみの一つなので、ここでそれを許していただきたい。「スポーツを学校教育に導入していれば」、第2次世界大戦で英米と戦火を交えることは無かったかもしれない。たとえ戦い、敗戦を迎えたとしても、今日のような、リーダーシップの確立されていない社会、それだけに「責任感」「危機感」を欠いた人物が、企業をはじめとした組織のトップになるなどという戯けたことも飽きなかったかもしれないのである。・・・・ああ！</description>
         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/04/post_686.html</link>
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         <pubDate>Mon, 30 Apr 2012 10:06:37 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>大学の人材育成についてー連載-１０</title>
         <description>●	クラレンドン委員会調査
　1861年、前述した学校教育の助成金の多寡を、統一試験の合格者で決めるという法案が通った年に、ビクトリア女王はクラレンドン伯爵に9つのパブリックスクールの「基本財産」「管理運営」「教育システムと内容」について調査を命じた。この調査は3年間にもわたり、1864年に結果が議会において報告された。
　この中で「ゲーム」は次のように言及されていた。
①	パブリックスクールでは、肉体的訓練は大陸と違って体操ではなく、クリケットやフットボールなどのゲームを通じてなされている。
（※注：ここでは「体育」と「スポーツ」の区別が既に明確に意識されている。）
②それらはレクリエーションとして自発的に行われている。
（※注：「スポーツ」が「強制」ではなく「自発的」である点は、頗る重要だ。）
③フィールドは単なる遊びの場ではなく、社会的な資質、男らしさなどを育成する場として、教室で行う授業と同等な教育として位置づけられている。
（注：フットボールを必修にしている学校が多かったようだ。）
④ゲームと学業の両立が望ましい。

　これらの委員会報告は、1870年代の英国で主流となった「アスレティシズム」に繋がって行った。
　一方、我が国の教育にスポーツがどのように導入されたのか。次回にその経緯と今日まで続いている問題点について述べる。</description>
         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/04/post_685.html</link>
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         <pubDate>Fri, 27 Apr 2012 11:05:32 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>大学の人材育成についてー連載-９</title>
         <description>●ウィカミスト論争
　パブリックスクールでスポーツが人気化していく、1855年に「ウィカミスト論争」が起きている。
　1834年から続いていた、「イートン」「ハロー」「ウィンチェスター」の3校のクリケット定期戦「パブリックスクール・マッチ」だが、1855年にウィンチェスター校のモバリー校長が「クリケットをする生徒は勉強を怠ける」として脱退を宣言。
（同校長は、「選手以外の生徒達も、定期戦が近付くと落ち着きを失くし、授業への集中ができなくなる」と言っているが、これは現在でも至るところで見られる光景ではないだろうか。）
　これに対し、同校のOB達が「ウィカミスト会」というOB会を結成し、定期戦への復帰を嘆願した。（ウィカミストとはウィンチェスター校出身者を意味する。）
ウィカミスト会の主張は、「男らしさ」「紳士的振る舞い」「他者に対する尊重」「忍耐」「勇気」「独立心」「自制心」「決断」などのジェントルマンとしての社会的資質の鍛錬、道徳や性格の形成に役立つという、スポーツの手段的効用を強調したものであった。
　モーニング・ポスト誌は会の結成を大きく取り上げ、プレス誌は会の主張を支持する社説を掲載し、「年々、より大きな自由とより多くの自己統制の機会が若者に与えられるべきである。将来、女王陛下の兵士として任務に就いたり、他の兵士を指揮できるように、あるいは政府の役人になってもおかしくないように、ケンブリッジの学生になってロンドンで自立して自活できるように、17歳になるまでに教育されているべきである」と書いた。
　新聞の論調は、従来の古典の読書中心の教育ではなく、社会生活に必要な指導力、自己統制力と自立、愛国心などを、授業以外の「ゲーム」で学ばせることの重要性を世間に訴えたものであった。現在の「実学を尊ぶ」風潮の原点とも言えよう。
　これらの「マスコミを通じたパブリックスクールの教育に関する論争」を通じ、「ゲーム」は身体を形成するだけでなく、人間の道徳や性格の形成手段となり、子供を楽しみのうちに大人社会に導く手段である、という一般認識の普及と定着の契機となった。

次回はクラレンドン委員会報告</description>
         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/04/post_684.html</link>
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         <pubDate>Fri, 27 Apr 2012 11:00:37 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>大学の人材育成についてー連載-８</title>
         <description>●スポーツの「教育的な役割」の明文化（あるいは形式知化）

　「1850年代はイギリス社会に試験が本格的に普及し始めた。競争的な試験は、教育や社会の様々な問題への特効薬と見なされるようになった。」（R.J.モンゴメリー）これにはダーウィンの「種の起源」から「進化論」の「適者生存」の思想的な影響がうかがえる。(世界最古の試験は科挙。西欧はこれを参考にした。特に絶対王政下、優秀な官僚の存在は、中央集権を強化するためには欠かせなかった。ナポレオンは、軍事のもではなく、「ナポレオン法典」の名でも明らかように、民事の行政手腕にも卓越しており、官吏の登用試験を完成させたのも彼だった。日本は西欧に先駆けて、平安時代に科挙をまねた貢挙の制を作ったが、実はあまり機能していに。そもそも試験を受ける資格が貴族にしか与えられていなかったからだ。その後自然消滅し、明治維新後、米国から教育顧問モレリーを招聘するまで、試験はなかった。モレリーの下で、幕府の昌平校が医学校を合併され現在の東京大学が誕生。現在までの高級官僚への登用口として存在し続けている。） 
　封建制の名残を一掃し、「自由主義」への傾向を進めるため、英国では60年代に「カンパニー法」が成立している。これは東インド会社などの特許会社制度からの脱皮を意味する。特許会社とは、絶対王政の王権を後ろ盾にするものであり、「近代社会」における市民の自由な経済活動とは相反する存在であり、従って否定すべき存在であった。英国では19世紀前半に、「自由独立」の気風が尊ばれるようになっていたのである。19世紀後半における大学の入学試験や、文官の任官試験制度の導入は、将に個人が能力で勝負する「能力主義」を確立し、社会の自由化への動きを制度化するものであった。近代国家における官僚制度（ビュロクラシー）の確立は、これらの個人としての競争原理を本質的な構成要素としている。
　こういう社会背景の中で、有名な「ウィカミスト論争」と「クラレンドン委員会報告」が起きるのである。</description>
         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/04/post_683.html</link>
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         <pubDate>Thu, 26 Apr 2012 07:13:07 +0900</pubDate>
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         <title>大学の人材育成についてー連載-７</title>
         <description>　現在、我々がスポーツと呼んでいる「概念あるいは（それが現象化された）制度」は、19世紀ヴィクトリア朝イングランドのパブリックスクールで完成されたものだ。もっとも、当初は単なる気晴らしでしかなかったスポーツが、現在のような概念として完成されるには社会的な能力を身につける機会として、明文化されたのは19世紀の後半であり、それは自然発生的に完成されたものでもなかったのである。
　「スポーツ」を通じて学べることの第一は、「ルールを守ること」であり、第二は「目的を持った生産的な活動、特に協働」である。どちらも座学のみでは不十分であり、身体を使ったトレーニング（訓練）を必要とする。特に後者は、「労働」と「納税」という「国民国家」の構成メンバーとなる「国民」には不可欠な能力である。
　また、グループとして一つの目的を達成することを通じて協調性を学ぶとともに、他者との相互作用を通して自分を形成することができる。言うまでもなく、「自己」とは他者との相互作用の中でのみ形成されるものである。自分を確定しない限り、他人との健全な関係作りはできない。「自己」はモダン（近代）になって発見された概念であり、モダンというパラダイムを支える基礎である。（ミシェル・フーコーは「性の歴史」において、キリスト教の「告解」という風習が「自己」の確立につながった、と述べている。）
　世界に先駆けて産業革命を達成し、19世紀の前半には近代社会を形成していた英国は、封建主義や絶対王政とは異なる「近代社会」における行動規範を模索し、スポーツの中にその答えを見出したのであった。近代社会を構成する「社会人」や、「国民国家」を構成する「国民」を作るためにはスポーツを利用するのは、確かに有効であった。（「国民」とは、近代社会人を「政治的側面」から捉えた名称である。また「国民国家」とは「近代」を支える現実的で基本的な制度である。）
　同時にスポーツがそういった機能を発揮する過程で「スポーツという制度」がより洗練され、完成度を高めていった。英国に続いて国民国家を志向する国は、例外なく国民を生産するための国民教育を実施するようになっていった。そして、これが20世紀におけるスポーツの世界化に結びついたのである。（国民国家という人工的な制度を支えるのは国民という存在である。国民とは、国語を話し、国民の自覚を持ち、平時には労働して納税し、軍事には兵役に応える人間を指す。その国民を育成する「国民教育」の基本は、「国語教育」「歴史教育」「スポーツ教育」３つである。）
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         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/04/post_682.html</link>
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         <pubDate>Wed, 25 Apr 2012 23:14:25 +0900</pubDate>
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         <title>大学の人材育成についてー連載-６</title>
         <description>●自己啓発の内容と「リーダーシップ」及び「スポーツマンシップ」

　従来、日本社会における欠陥として指摘されてきた「リーダーシップ」教育の欠如であるが、ここでは２つの点を指摘しておきたい。
　第一に、「リーダーシップ教育」はリーダーだけに行うべきものではないという点である。「リーダー」を決めるのは「フォロワ―」である。「リーダーシップ」を決めるのは、「フォロワ―シップ」である、というのが最近のリーダーシップ論の主流となっている。（注：米カーネギーメロン大学のロバート・ケリー教授が1993年に出版した『指導力革命 ― リーダーシップからフォロワーシップへ』で提唱。）
　日本において優れたリーダーが育ちにくいという背景に、「突出を許さない」横並び意識が根強いという指摘がある。これは「フォロワ―シップ」が確立されていないとも言える。全員が「リーダーシップ」を理解しない限り、「フォロワ―シップ」は育たない。ここで言うフォロワ―シップとは、所謂「体育会」的な「盲従」とは違う。リーダーが示す「戦略」を理解し、「戦術」の実行段階で、各自の役割を積極的な果たすことである。それなしでリーダーシップは機能しないのである。
　第二に、欧米において、リーダーシップはスポーツを通じて学び、身につけることが一般的であるという点である。歴代のアメリカの大統領が押し並べてスポーツ好きであるのは、決して偶然ではない。「スポーツ嫌いな大統領」というのは、「リーダーシップのない指導者」を意味し、ほとんど言語的な概念矛盾の存在だと言っても過言ではない。（我が国には、「リーダーシップのない首相」というのが、決して稀な存在ではないのと好対照である。）実際、筆者は欧米人から「スポーツでリーダーシップを学ばないのであれば、日本はどこで学ぶのか？」といった質問をされ、答えに窮したことが複数回ある。（まさか「日本ではリーダーシップが必要とされていない」という現状を説明するわけに行くまい。それは口にするには余りにも悲しすぎる現実である。）
　2003年に「スポーツマンシップを考える」という本を上梓して以来、10年間の累計で数千人に講義や講演を行った。そこで、「スポーツマンとはどういう人か？」という質問で、欧米の回答ではほぼ毎回のように出てくるのに、日本では一度も出て来ない能力を表す言葉がある。それは「勇気（Braveness）」である。この一事をもってして、「リーダーシップ」及び「スポーツマンシップ」に関する彼我の差が、歴然と、そして明確になる言葉ではないだろうか。
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         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/04/post_681.html</link>
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         <pubDate>Tue, 24 Apr 2012 22:56:16 +0900</pubDate>
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         <title>大学の人材育成についてー連載-５</title>
         <description>●「ＫＹ」という符丁が示すもの

　21世紀になった今日もなお、若者の間に「KY」という陰湿な符丁が存在していることを我々は知っている。この「日本という社会」において、21世紀の今日になっても、いまだに「空気」が個人の行動を規制する規範として外形的に存在し、大いに機能しているという事実には愕然とせざるを得ないであろう。
　一方で、2011年に死去したアップル社の創立者、スティーブン・ジョブズ氏がスタンフォード大学の卒業生に送った「Stay Foolish」という言葉は、「周りの空気など気にするな」と解釈でき、「KY」と対照を成す。確かにジョブズ氏が「KY」であれば、今をときめくスマートフォン（スマホ）を考え出すには至らなかっただろう。
　ビジネスにおけるクリエイティビティーやオリジナリティー等となると、特殊な才能だという側面もあり、全員にとっての一般的な問題ではないと考えられるかもしれない。しかしながら、個人としての「リーダーシップ」の欠如が生みだす社会的なリスクという観点となると話は別である。
　太平洋戦争に遡るまでもなく、2011年の大震災で、我々日本人は将にそのリスクが社会的なものであり、いざリスクが現実化するとその影響が甚大であるという点、身をもって味わったはずである。屋上屋を架すことを承知で述べるが、平時においては表面化しない「個人としてのリーダーシップ」の欠如は、非常時には甚大な被害に結び付くのである。そして、この「人災」に対処するには「人材育成」という教育での対処以外に方法は無いのである。（教育学者のジョン・デューイは「経験と教育」の冒頭で、「教育のような社会的に重要な関心事が、実践的には理論的にも論争の舞台にあがらないようでは、それは教育にとって健全な兆しにはならない。」と述べている。）
 
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         <link>http://www.sports-soken.com/blog/archives/2012/04/post_680.html</link>
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         <pubDate>Tue, 24 Apr 2012 22:53:53 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>大学の人材育成についてー連載-４</title>
         <description>今日の日本の人材（育成）の問題：

　2011年3月11日の東北大震災は、千年に一度という大きな天災ではあったが、被害を甚大にしたのは「人災」的な側面が大きかった点、社会的なコンセンサスになっている。
　平時には表面化しないリーダーシップの不在は、危急時には恐ろしい形と規模で現象化する。それを我々日本人は思い知ったはずである。震災直後の首相官邸や東京電力のトップの対応は、まさに「リーダーシップの不在」と「リスク・マネジメントの欠如」を感じさせるものであった。リーダーの究極の役割は、リスク・マネジメントであるのは多くの経営学者が指摘している。（例えばミンツバーグ）
　震災後、「人災」的な側面について、あれだけの注目が集まったにも関わらず、震災後の対応策は、将に「箱モノ行政」を象徴するものに終始している。曰く「災害に強い都市作り」「石油に代わる新エネルギーの模索」「災害時に対応する制度」等々。これらは確かに大切なことである。が、一方で、あれだけ巷間を賑わせた「人災」への対応には、あれから1年を経た今日に至るも全く言及が成されていないのも事実である。
　私の回りの誰もが、この欠落に言及すると「確かにオカシイですね」といった対応をする。「確かにオカシイ」というのは、他人から指摘されるまで気づかなかった者の言い種である。これは「当事者意識の薄さ」の表れ以外の何物でもないだろう。こういった「他から言われるまで、重要なことに気がつかないでいられる」対応自体が、新しいパラダイムへの脱皮の困難さを象徴しているのである。（例えば、「スポーツマンシップ」という言葉は、誰もが大切だと言うが、誰もその定義を知らない）事態が実に非合理的であることに、何ら疑問を感じない。当事者意識が持てない者に、危機意識が持てない。これではリスクマネジメントなど、不可能なのである。（ちなみに筆者は「当事者意識を持つ」ことも、重要なナレッジ／能力であると考えている。）

　●「人災」への対応無策について
　「人災」への対処は、人的資源の開発、即ち「人材教育」意外に対応できないはずである。問題の所在が分かっているのに、それが課題として浮上していないという現状をオカシイと思わない「当事者意識の欠如」と、そこから導かれる「危機意識の欠如」こそが、「人災」を生んだ基本的な社会的背景なのである。
　古くは山本七平氏が「空気の研究」で指摘した問題点がそこに浮上してくる。
極東軍事裁判で、連合国の検事が日本の戦争遂行責任者に尋問して明らかになったのが、全員が「個人として合衆国と戦争すべきではない」と認識していたという事実であった。全員が言わば戦争反対だったのにも関わらず、戦争に突入したのはなぜか、に対する答が「当時の空気が（それを許さなかった）」という主語であった。ここに個人としての主体性を持ちにくく、論理的な思考がしにくい日本という社会の特殊性が浮き彫りになったのである。（「空気」などは最も非論理的なものではないか。）
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         <pubDate>Sun, 22 Apr 2012 23:15:34 +0900</pubDate>
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