連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No19 環境問題(Conservation International) 2013/0810

2002年のwカップが日韓共同開催に決し、ミッションが終了した私は電通に帰った。2002年の大会運営に携わりたいとは全く思わなかった。当時は「FIFAに裏切られた」という思いが強く、むしろ二度とサッカー界とは関わりたくない、という思いが強かった。何しろ、自分の人生を日本開催に賭けていたのだ。「2002年のWカップの招致と開催」を通じて、「21世紀に対応する新しい国の形を模索し、そのための新たな試みにトライする」という野望は、「日韓共同開催」という予想もしなかった結果と供に費えた。「共同開催」のためのコストとエネルギー、そして時間は、日本単独開催を前提にした試みを許さないのだ。私にとっての人生3度目の無謀な試みは、あえなく霧散した。そして、スポーツと縁を切ることを決意した。

スポーツから抜けたのはいいが、次に戦う場が定まっていなかった。そして、「環境問題」に大きな可能性を見いだした。前述したように、Wカップ開催を通した「21世紀の国のあり方」を考えていた際、「環境」問題はその中の大きな要素の一つだと認識し、多少の勉強はしていた。

日本語では「環境」は一つの単語だが、英語では「エコロジー/ Ecology」「エンバイロメント/Environment」そして「エネルギー/Energy」の3つの領域に分けることができる。中でも「エネルギー」に大変興味を持った。調べて行くうちにあるコトに気がついた。「環境問題」は国境を越えた問題であり、従って極めて国際的な政治問題であり、当然ながら米国の影響が大きい。

89年にベルリンの壁が崩壊し、ソ連は消滅した。ここから世界の様相が一変し、既に21世紀的な社会に突入したと考えるべきだ。フランシス福山は、これを「歴史の終わり」であると主張したが、むしろ「20世紀の終わり」だと考えるべきだ。というのも、20世紀は「近代(モダン)」が世界化した世紀であって、「近代国家(=国民国家)」を基礎単位とした進歩、拡張が中心だった。その結果が2度の世界大戦であり、東西冷戦だった。21世紀は「国家/国境」を越えた問題が噴出して始まった。

「環境問題」は「金融問題」と同様に超国家的な問題であり、脱欧米問題としての「文明の衝突(beハンチントン)」、あるいは「アジア・アフリカ問題」などと同様に、極めて21世紀的(あるいはポストモダン)な問題だ。そして、環境問題の政治的な側面は、どうも未だにワシントンで決定されていたようなのだ。(「ワシントン・コンセンサス」の一つだと言えよう。)例えば「二酸化炭素の排出権取引」。これが地球温暖化を止める有効な方法かどうか、私には判断する能力がない。が、如何にもうさん臭い匂いがする。「環境問題」と「金融問題」という最も21世紀的な問題同士をくっつける、という安易さを感じるではないか?

電通内でスポーツから移った配属先で環境問題に関与し始め、「メルセデス・ベンツに乗るということ」というベストセラーの著者である金谷さんと知りあった。彼は今でも環境問題に関しては私の先生だ。「メタンハイドレード」「燃料電池」などは、全て彼から教わった。(金谷氏は、現在、安倍清韓の「国土強靭化計画」に深く関わっている。)金谷さんから「Conservation International(CI)」という米国の環境NGOの日本の代表者、福岡女史を紹介された。この団体はオモシロイ。

21世紀になって「グリーン革命」という本がベストセラーになった。20世紀末から、「環境問題」が国家や都市や産業の形をどのように変えつつあるか、ということを具体的な事例をあげて論じている好著だ。この本の下巻の冒頭で、著者のフリードマンの先生として紹介されているのが、CIのCEOであるグレン・プリケット氏だ。CEOという肩書きで、ビジネス的な匂いを感じるだろうが、CIは将にビジネス的に環境問題に取り組み大成功している団体だ。先の3つのEで言うと、「生物多様性」(Bio-Diversity)を標榜しているので、基本的には「Ecology」が専門だ。私はエネルギー問題を指向していたが、「ビジネスで」という取り組み方には、大変に共感を覚えた。そこで、福岡さんに私を「CIにインターンシップ」で迎えてくれるように仲介をお願いした。

日時: 2013.08.11|

連載No18.  国際メガ・スポーツ大会開催の意味 その2 2013/08/10

アメリカがサッカーのWカップを開催する意味の第二は、20世紀の交通インフラに変る「情報交通インフラ」の整備だった。当時のクリントン政権のゴア副大統領は、「情報ハイウェー構想」を唱えていた。「不都合な真実」という映画の公開以来、環境問題の先駆者としてスッカリおなじみになったゴア氏だが、実は父親は上院議員でアメリカのハイウェーの整備を押し進めた政治家だった。息子の方が、「情報ハイウェー」を唱えた背景にはそういう事情もあった。

「情報ハイウェー」とは、全米をインターネットで結び、情報の「分散並列処理」を進めるという国家戦略だった。80年代になって、工業製品の分野で日本に負け続け、「世界の工場」であることに見切りをつけたアメリカは、次に自分たちが優位になる有望な分野を模索していた。資本主義のリーダーとして、資本の投資効率の良い「新たなフロンティア」が求められていた。89年にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造も終焉。それに伴って、地球上の物理的な空間から経済のフロンティアが消滅してしまっていた。新たなフロンティアは、物理的ではない未開の地に求めたのだ。第一に、「インターネット」というバーチャルな世界を開発して、開拓した。バーチャルな世界であれば、「未開拓地」は無限にある。いや、作れる。

第二が、金融だった。90年代になって、「金融工学」が異常とも言える発達を遂げる。それは、冷戦構造が終焉したことと無関係ではない。ソ連という仮想敵国が消滅したために、軍事予算が削減された。当然だ。軍事的な研究開発費も削減された。これも当然だ。原子爆弾の開発において、天才数学者フォン・ノイマンや物理学者のオッペンハイマー達が核融合の計算のために多く起用された。ノイマンの考案した「多列多項式」は、核融合にいたるまでの連続する化学反応を計算し、コントロールするためには実に有効だった。計算のための機械を開発すべきだとして、フォン・ノイマンは「電子計算機」を考案する。これは原爆の開発には間に合わなかったが、その後作られたエニックスというコンピュータは、水素爆弾の開発では実際に大活躍をした。それがIBMという会社の誕生にも結びついている。(ちなみに、戦後、大学の戻ったノイマンが研究して開発した電子計算機で最初に計算したのが、地球上の天候変化だった。その後この計算式を使って「CO2の増加と海面の音頭変化」の関係を日本人の研究員が証明した。この論文が後に「CO2削減問題」につながっている。)

インターネットは、もともとテロ攻撃に対応するための情報のセキュリティーとして軍によって開発された「アーパ・ネット」がスタートだ。このようにアメリカでは軍事的な研究から多くのテクノロジーが開発され、後に民間に開放されている。90年代になり、軍事研究予算が削られたために食えなくなった数学者が職を求めたのが、同じくマンハッタンにある「ウオール街」だった。(原爆の開発が「マンハッタン計画」と呼ばれたのは、ニューヨークのマンハッタン島にあるコロンビア大学の構内で、数学的な研究が進められたからだ。)90年代にウオール街で発達した「デリバティブ」などの新しい金融商品は、「リスク」を数学的に計算した「金融工学」の発達なしには起こらなかった。これが21世紀になって「サブ・プライム・ローン」問題を引き起こし、「リーマン・ショック」につながっていった。

ゴア副大統領(当時)の情報ハイウェー構想は、1994年のWカップと、1996年のアトランタ五輪の開催で大いに進んだのだ。メガ・スポーツ・イベントの開催には、国の支援が必要となっている。逆に、国はその支援を通じて、国家戦略を具体的に進める事が可能なのだ。(逆に、世界規模の戦争が無くなった21世紀の今日では、20世紀に戦争が担っていた「基礎的なテクノロジーの開発」を、メガスポーツ国際大会の開催が担っていると考えることも可能だろう。)

ちなみに、格付けで有名なブルムバーグ者の創立者ブルムバーグ氏がNY市長になった直後、2012年の五輪招致に手を挙げた。結果としてロンドンに負けたのだが、NYは詳細な開催計画書を作成しIOCに提出した。現在では開催準備の中に「環境アセスメント」は必須項目になっている。NYはそれまで何十年も怠ってきた「環境アセスメント」を行った。「下水道」「交通インフラ」「エネルギー供給」「大気や水質」などの諸項目のチェックを行った。そして、その結果、都市の基盤に多くの問題があることが判明し、総合的な都市計画が策定されることになった。第一に「人口増加」に耐えきれないことが明らかになった。住宅、水道、公園などが当時の人口800万人にしか対応でないが、2030年には900万人台に突入すると予測されている。更に深刻だったのは、都市基盤の老朽化だ。水道なだおは1920年代に整備されたものの多くがそのまま残って使用され続けていた。このままでは2030年代にNYの水道のほとんどが100歳を越えることになる(!)これらに対応するために、ブルムバーグ市長は「プランYC(PlaNYC)」を策定し実行している。

この話は東京五輪の招致を想起させるだろう。世界大戦のために、東京の都市インフラは1945年以降に一新されたと考えたとしても、既に半世紀は経過している。いや、恐らく日本中の都市インフラも事情は同様だろう。静岡もその例外ではない。私たちの祖国は、都市の基盤インフラを総点検し、修繕あるいは再構築する必要がある。ここから目をそらす訳にはいかない。五輪やWカップの招致には、こんなきっかけを与えると行った側面もあるのだ。

日時: 2013.08.10|

連載No17. 国際メガ・スポーツ大会開催の意味 その 2013/08/09

Wカップの開催を勝ち取ることで、実は、サッカーのみにとどまらない、スポーツにとどまらない、「国家の形を変える」という野望を持っていたことを告白しよう。大言壮語という誹りは覚悟の上だ。「地方の自立と振興」「自立した地方が中央を経由せずに並列でネットワークを組む」「地方と直接国際社会とのネットワーク構築」「ICTの活用による行政の効率化」「環境問題に考慮したインフラ整備」などの21世紀的なテーマが、Wカップ開催によってできるはずだった。少なくともきっかけにはなるだろう。この確信があった。

お手本は「東京五輪」と「アメリカのWカップ」だ。昭和39年の東京五輪の開催は、いろいろな意味でその後の日本という国の形に影響を与えた。例えば、「首都高速」「東海道新幹線」「東名高速道路」などが「東京五輪」の開催が契機となって整備されたのは有名な話。それだけではない。「メイド・イン・ジャパン」というブランドは、「東京五輪」開催までは「安かろう、悪かろう」だったのだ。それがこの大会を立派に実施したコトをきっかけに欧米での日本の評価が変った。それに伴って、工業製品も一流の仲間入りとなった。

1994年のWカップ開催は、開催地米国にとって2つの大きな意味があった。第一に、「グローバル化」の問題だ。アメリカはモンロー主義の伝統の国であり、旧大陸である「欧州」を否定して建国した新大陸の人工国家だ。自然にできた国ではなく、歴史が浅いために、常に「アメリカ的なもの」に拘っている国でもある。スポーツはアメリカでは国家宗教とも呼べるものになっている。多民族国家が一つの価値観を共有するのに、スポーツほど便利で有効なものはない。スポーツはまさに「アメリカ的」なモノの象徴となっている。

従って、逆にアメリカン・スポーツしか受け付けないところがあった。野球は「National Pastime」(国民的な余暇)と言われ、アメリカン・スポーツの代表として君臨してきたし、アメリカ国内選手権の名前は「ワールド・シリーズ」だ。フットボールと言えば「アメリカン・フットボール」のことだ。その国において旧大陸で最も人気のあるサッカーの世界選手権が開催されたのだ。組織委員の一人であるスタインブレッヒャー氏は、「Wカップは窓だ。世界がその窓からアメリカを見、そしてアメリカもその窓から世界を見た」と言ったのにはそういう背景がある。コレは深読みすぎるかもしれないが、90年代のアメリカの「グローバリズム」と、Wカップの開催には何かの因果関係が見いだせるのではないだろうか?アメリカが旧大陸のサッカーを受け入れるのには、グローバリズムの1990年代まで待たなければならなかった、と考えるのは穿ち過ぎだろうか?

 

 

日時: 2013.08.09|

連載No16. Wカップの招致活動と地方自治体 2013/08/08

Wカップの開催地に立候補するにあたって、中央政府との交渉も然る事ながら、国内で最もエネルギーを使ったのは、実は地方自治体関連の作業だった。Wカップの招致は、まず24の自治体が手を挙げて始まった。最終的には招致活動費の負担金を捻出できた16の自治体が招致活動のコアメンバーになった。

税金を投入するわけだから、地方の議会を通さなければできない相談だ。「サッカーという一競技の世界大会を招致するのに税金を使う!?」などという非常識な話を議会で通さなければならない。金額は1自治体あたり2億5千万円!である。しかも、この活動費は、招致に失敗しても返金不可である。どうしたら議会を通すのか?各自治体のスタッフと我々企画部との共同作業が始まった。

「Wカップの開催がどのように地域振興に結びつくのか」という論理を考えださなければならなかった。そのためには、まず「21世紀の日本という国の形」と「地方自治体の姿」を模索し、提示しなければならない。何のことはない、ここで私は、本来ならば自治体の首長がすべき「地方の21世紀像」を描くことになったのである。ある意味で、県知事と同じ目線での思考の訓練をしていたとも言えよう。(これらは後に「グリーンブック」という小冊子にまとめ、配布された。)

運命の日は、1996年6月1日だった。この日に日韓双方がFIFAの理事会でプレゼンテーションを行い、直後に投票が行われ、多数決で開催地が決まる。…はずだった。ところが、周知のように、プレゼンテーションもさせてもらえず、投票も行われずに、2002年のWカップは、「日韓の共同開催」に決まった。その結論自体にどうこう言うつもりは無いが、後出しジャンケンのようなコトには肚が立った。「共同開催」という選択肢は、ルールには無かったのだ。どういう判断だったのか、実は今もって判明していないが、FIFA内の政治力学であり、決して日韓への配慮からではないことははっきりしている。招致活動費用の90億円は、どう考えるべきか?多くの人が数年にわたって関わり、皆の期待を背負った苦心の作である我々のプレゼンテーションは、させてもらえなかったのだ。

今更ではあるが、我々が用意したプレゼンについて、いい機会なのでこの場を借りて触れさせて欲しい。なぜ、日本で開催するのか?招致の基本的コンセプトは、冒頭で次のように説明されるはずだった。「2002年は、日本が1952年にサンフランシスコ講和条約によって、戦後の国際社会に復帰してからちょうど半世紀にあたる。この半世紀の間、世界規模の戦争は起きていない。国際的な平和のメリットを最も享受したのは我が国、日本だ。国際社会に対して、その半世紀の恩返しをさせて頂きたい。その機会が、Wカップの初のアジア開催となる日本大会である。」と。それなりの説得力はある、と今でも思う。が、「死んだ子の歳を数えても仕方がない」。

日時: 2013.08.08|

連載No15 「2002年Wカップ招致活動」  2913/08/07

政治に直接関わった最初の機会は、「2002年のWカップ」の招致活動だった。前述したように、90年に開催の意思を表明してから日本の招致活動は続いていたが、実をあげるには至っていなかった。大きな計算違いが2つ生じていた。

第1は、「ドーハの悲劇」だった。ご存知のように、94年開催のアメリカ大会のアジア予選の最終ゲームで、このまま行けば史上初の本戦出場が決まるはずだったが、ロスタイムにコーナーキックのヘディングでイラクに同点弾を献上し、出場権を逃したあの試合である。(NHK-BSで中継中、似鳥キャスターの「岡田さん、負けちゃったじゃないですか〜」という実にノー天気な突っ込みに、思わず絶句してうつむいた岡田氏。この四年後に、代表チームを率いてジョホールバルで奇跡を起こすとは、誰も想像していなかった。)この失点で、開催権を争っていた相手の韓国に出場権が渡った。こっちにとっては「悲劇」だが、あちらにとっては将に「神の恩寵」だった。試合終了後のテレビでは予定されていなかった大統領が画面に登場し、この勢いでWカップ開催権の争奪も日本に勝つぞ、と宣言した。Jリーグ発足後、初のアジア予選だった。国民が注目して負けた。ここで出場しておかないと、本戦に一度も出場していない国で開催して良いのか?という問題が浮上する。開催国は無条件で出場できるからだ。更に、韓国のサッカー協会の鄭会長は、韓国の財閥である現代グループの跡取りである。ここで日本に勝つことで、政界への進出が実現性を帯びるという話もあった。

第2の失敗は、その鄭会長をFIFAの理事に当選させてしまったことだった。94年のWカップアメリカ大会の直前に、アジア枠の理事3名のうちの一人の改選が行われ、日本からは村田専務理事が立候補し、鄭会長に負けた。事前に日本が勝てないことが分かったので、日本の票を西アジアに回すはずだった。そして韓国ではなく、西アジアから理事が誕生するはずだった。その情報を知らせたのは他ならぬ私だ。情報源は明かせないが、かなり確実な情報だった。裏もとれていた。なのに、なぜ?という思いだった。日本の招致活動の失策が続いたために、7月に委員会の全面改組となった。新しい組織委員長は私の大学のサッカー部の大先輩、岡野俊一郎さんだった。

私が電通からサッカー協会内の招致事務局に出向したのは、1994年の11月のことだった。企画部と広報部の副部長の兼任だった。企画部というのは「政治的な事項」を扱う。国内と国外の「ロビー活動」及び、国際サッカー連盟(FIFA)に対する「開催計画書」と「プレゼンテーション」の作成も企画部の仕事だった。出向後、緊急の課題は、「政府の了解」を得ることだった。翌95年の3月までに正式な立候補をするためには、どうしても政府の了解が必要となる。正式な立候補をするためには、FIFAの提示する「開催要求基準書(List of Requirements)」を満たさなければならない。13個の要求項目には、政府の了解を必要とするものが多かった。例えば、「FIFA加盟国のどの国が本大会に出場を決めても、当該国の通貨と日本円との交換を保障せよ」に答えるためには財務省の承諾が必要になる。

実は、日本サッカー協会(JFA)が招致を決めた時点の政府は、日本新党の細川政権で、自民党は下野していた。そこでJFAと電通は与党の実力者であった小沢一郎氏に「招致議員連盟」の組織を依頼し、「閣議決定」に向けたロビー活動を任せることにした。ところが、その後社会党の村山富一委員長を首班とした「自社連立政権」という誰も予想しなかった政権が誕生し、日本新党は自民党に変って下野してしまった。「招致議連の改組」をし、時の政権に「大会招致の閣議決定」をしてもらわなければ立候補に間に合わない。焦った。この時の小沢氏の態度は潔かった。おかげで、宮澤喜一元首相を会長とする超党派の「招致議連」に改組がスムーズに行き、ギリギリの3月初旬の「閣議了解」が得られ、正式な立候補ができたのだ。

 

日時: 2013.08.07|