連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No.54 「エコ・シェルター・スタジアム」構想 2013/0925

  災害時に「命を守る」ための避難場所(シェルター)に必要な機能は何だろうか?第一に津波でも流されない、地震でも倒れない「頑丈で巨大な建造物」が必要だ。構造的には土台が広い円錐形が望ましい。第二に必要なのは、屋根。第三には、「独立した電源」が必要だ。第四に、「調理(ケータリング)機能」。第五に物資が備蓄できる倉庫。第六に、ヘリコプターが発着できる「ヘリポート」のための空間。(東日本大震災の例で分かるように、道路網は寸断され、海路も船が岸に付けなくなる。物資の輸送は、ヘリコプターに頼るしかない。)

 以上の機能を一つの図に描くと、どうなるだろうか。「ヘリポート」の空間、「縦150m×横100m前後」をまず確保する。次にその空間を囲んだ建造物を考える。下が広く、上に行くに従って狭くなる。四辺を囲んで、「ケータリング」「倉庫」「避難部屋」などを備えた建物を配す。建物の屋根の上には太陽光発電パネルを置き、独自電源を確保する。同時に地下に巨大な「燃料電池」を置くと、「独自電源」とともに、「水の確保」もできるだろう。(前述したように、燃料電池は、「水素と酸素を合体させ電気を発生させる」のだが、その際に「熱」が発生し、「水」ができる。)

 これだけの施設には、土地代を別にしても、数百億円の施設整備費用がかかるはずだ。命を守るためには仕方が無いコストかもしれないが、「百年に一度」の災害に備えると同時に、残りの99年間の活用方法はないだろうか?ここで私が提案したいのが「スタジアム」だ。

 災害時のヘリポートは、普段は芝生を植えるとサッカーができる。(芝生はヘリコプターの発着にとって支障にはならないはずだ。)食料を備蓄するスペースは、室内練習場として活用する。選手がゲーム前のウオーミングアップに使うために必要な空間だが、いざと言う時に運びこまれた物資の備蓄場所にすればよい。選手達が普段使うシャワールームは避難された方々にとっても嬉しい施設だろう。「水の確保」という点では、「飲料水」だけでなくトイレ回りなどの「生活用水」の確保も重要になる。スタジアム内に室内プールを作ることも検討の余地がある。「燃料電池」から出る「水」と「熱」は、ここでも大いに活用できるはずだ。

 ゲーム時の食事提供のためには調理施設が不可欠だ。会議室だけではなく、廊下及びコンコース等のスペースは避難場所にするために、最低限屋根が必要だ。そして最後に建造物からヘリポートの空間に向けて斜面を作り、階段状にすればそれが観客席になる。(ロンドンの人気チームチェルシーのホーム「スタンフォードブリッジ」は、ホテルの壁面からピッチに向けて斜面を作り、観客席にしている。)これで100年のうち99年はプロのゲームにも対応できる立派なスタジアムが完成する。

日時: 2013.09.25|

連載No.53  4)防災政策(リスク・マネジメント)  ①ハード 2013/0924

 東日本大震災以降、天災への備えは何にも増して政治の課題として重要になっている。安倍政権でも「国土強靭化計画」を唱え、海に囲まれ、地震の多い我が国で、最も現実的な津波への備えを進めることを言明している。「南海トラフ」の問題は太平洋側の都道府県にとって、誠に深刻である。静岡県を含む9つの県が、「南海トラフ」対策の指定自治体になっている。私の実家は、焼津市の中新田というところにある。海の波打ち際から2kmくらいのところで、「3.11」級の津波が来たら、間違いなく家は流されるだろう。「3.11」以降、実家に帰ると、どうしてもその話題になる。もしもの時の避難導線を確認するが、幹線道路も含めて道路はパニックを起こした住民のクルマで渋滞するだろう。従ってクルマは使えないだろうから、83歳になる母が「徒歩で1km弱先の東名道路の向こうまで避難するのに間に合うかどうか」が勝負だろう、などと話す。決して愉快な話ではなく、話しながら憂鬱になる。

 憂鬱なのはどこも同じだろうが、沿岸部では本当に深刻だ。何しろ、「海への備え」が話題になればなるほど、「沿岸部に住む危険性」が強調されるからだ。実家のある焼津市では人口の流出が止まらなく、本当に笑い事では済まない。海沿いの土地に住もうという人がおらず、土地に値段がつかないのだ。売るに売れず、引っ越すに引っ越せず。政府が沿岸部に防潮堤を作ってくれるのは嬉しいが、その近辺は「危険地域指定」を受けたも同然で、ますます住民は怯え、地価は下落し、人の流出は止まらない。出口の見えない憂鬱な問題だ。

 そこで発想を変えてはどうか、と次のような提案をしたい。基本的な考え方は、

①   コンクリートで沿岸部を全て被うのは非現実的。しかも景観を損なう。

②   天災への備えは、「命を救う」に徹し、建造物は例外を除き、諦める。

③   どうしても守らなければならない建造物周囲のインフラ整備を進める

④   「命を救う」ために、避難場所とそこにたどり着くための導線を確保する

⑤   現在の沿岸部から内陸に移転するためのコストを、むしろ「復旧事業」のために積み立てる

  まず①についてだが、日本はこれまで歴史的に何度も「未曾有の天災」に遭ってきたはずだ。しかし、海の近くに住むことを放棄していない民族だ。「海と供に生きる民族」だと思う。100年に1度、海が怒ることはあるかもしれないが、残りの99年は「海は豊かさをもたらす源泉」なのだ。海が怖い人に強制はしないが、「海と供に生きる覚悟」を持った人には、近くで海を眺めながら暮らす権利があるのではないか?(これは「山の民」にも同じことが言えるだろう。)

日時: 2013.09.24|

連載No.52 尊重とエンパシー 2013/0920

 「スポーツ授業」を小学校段階で開始するのには根拠がある。「異者と折り合う」ために必要な能力は、どうも前頭葉にあることが脳生理学的に証明されている。この「哺乳類の中でも人間にしか無い脳」は、大体10歳で細胞の数が決まる。11歳以降は増えない。そして、それからの10年間で機能が決まる。30歳から「人付き合い」が良くなる人は、脳生理学的にはあり得ないのだ。

 「異者と折り合う能力」は、国際的にも重要度が増している。2001年にOECDの教育指針の変更があり、21世紀に必要な能力として「エンパシー」が挙げられ、有名なPISAというOECDの学習到達度調査でも触れられている。「シンパシー」は日本語では「共感」だ。これは同調による共感なのだが、「エンパシー」は「同調できない」他者、つまり「異者」に対する共感のことだ。これには「9.11」の同時多発テロが大きな影響を与えている。「イスラム対キリスト教」の対立が背景にある。

 東西冷戦構造がなくなり、「資本主義対社会主義」というイデオロギーの対立が無くなった後に、「文明の対立」(byハンチントン)がそれに変って主要な紛争の種になっている。「アラブ分明vs西欧文明」は最終的には分かり合えない。なぜなら原理的な対立だからだ。どこまで行っても、お互いに相容れない同士だろう。しかし、それを武力対立にしない方法が求められている。「異者」との共存が図られなければ、国際社会はいつまでも不安定なままだ。そこで注目されたのが、「分かり合えない者同士が共感しあう能力」としてのエンパシーである。「言う事には賛成しかねるが、なぜそういう意見を持ったかは理解できる」はずだ。

 根本は、立場が違うもの同士が尊重し合えるか、である。立場が違えば意見が異なるのは当たり前だ。その立場の違いを理解しあうのが、スポーツの根本原理、スポーツマンシップに他ならない。「スポーツが成立するための不可欠な要素、「相手」「審判」「ルール」の3つを尊重せよ。」この原理がなぜ成立するか。それはスポーツがプレー(Play)されるものだからだ。プレーとは遊びである。遊びは「楽しくなければやる価値がない」「遊びたい人達」が集まって、「楽しく遊ぶための決め事を定め、「ルール」とした。「ルール」も「審判」も、そして「相手」も、でおれ一つでも欠いたら、楽しく遊べないのだ。これが分かれば、ルールを破ったり、ごまかしたりすることが如何に無意味であるか、が理解できよう。この原理を5年生の最初の授業で説明しておくのだ。

 スポーツマンシップの正しい理解が一般的に広まれば「体罰」も無くなる。大阪の桜の宮高校で自殺したバスケット部の主将には、逃げ場が無かったのだろうと思う。部活動にも、学校生活にも、対外試合でも、家庭にも、どこにも「スポーツ」が無く、逃げる場所が無かったのだろう。スポーツには「敵」はおらず、「相手」への尊重がスポーツでは一番大事なんだよ。「楽しくなければスポーツとは呼べないのだよ、と誰かが教えておけばなあ、と悔やまれる。実は、私の元に大阪市の教育委員会と、東京都の教育委員会からの両方から接触があったことを報告しておこう。いずれも2013年の3月だった。「知事選出馬」によって、東京都の委員就任は辞退せざるを得なかったが、静岡県で「スポーツマンシップ教育」を実施し、教育モデル県にするという意図があったのである。

 

日時: 2013.09.20|

連載No.51 NPO法人「スポーツマンシップ指導者育成会」 2013/0918

 スポーツの原理の中心に、「尊重(リスペクト/Respect)とい精神的な態度がある。リスペクトとは、「異者の価値を理解し、違いを許容する」コトだ。異者とは自分と意見が異なった者のことだ。自分と意見を同じくするものを許容するのは難しくないが、異なる者と折り合うことは容易くない。社会とは「異者」の集団だ。「同質者の集団」である「共同体」とは、そこが本質的に異なる。共同体の論理は、「人は皆一緒」だが、社会では「人は皆、それぞれが違う」。近代になり、特に産業革命後、生産力が急激に向上し、交通の発達も伴って、「ヒトとモノ」の動く量と早さが急増した。都市には「異者」の集団ができ、それらが集合して社会が形成された。「社会」が法的な制度となったものが「国民国家」に他ならない。社会という「異者」の集団を近代国家は「国民」という概念で統一した。(「国民国家とナショナリズム」の関係については、Bアンダーソンの「想像の共同体」、ゲルナーの「民族とナショナリズム」、Eボブズボームの「ナショナリズムの歴史と現在」などがおススメだ。)

 未だに「共同体の論理」が社会の主流となっている日本は、大きなリスクを抱えているままなのだ。そしてそのリスクに備えるために「どれだけ人材教育が必要か」、そして「スポーツマンシップ教育が、どれほど有効か」が、多少はお分かり頂けたのではないだろうか。

ではどうするか。具体的には、小学校の5年生から「体育」という授業名を「スポーツ」に変更する。そして、5年生の最初の授業で「スポーツと体育の違い」を教える。10歳くらいになると、この両者の原理的な違いを理解させることは可能だ。実際、私は小学校5年生に「スポーツマンシップ授業」を実施している。(この録画はスポーツ総合研究所のHP内に公開されている。)

 また、私は、「知事立候補の打診」を3月初旬に受ける3ヶ月前、2012年の12月に、「スポーツマンシップ指導者育成会」というNPOを立ち上げてた。これは読んで字のごとく、「スポーツを通じてスポーツマンシップを教える指導者を育成する」コトを目的に作ったNPOだ。申請から認可まで10ヶ月を要した。東北大震災の後に「人災」という言葉が踊ったが、誰もそれに対応しないで時が過ぎていくことに危機感を抱き、翌年の初頭に自らのリスクで動く決意を固めて創立を決意した。5年をメドに47都道府県全てに指導員を育成して、そこを中心に普及する、言わば「家元制度」をイメージしていた。また資格付与の団体として、「漢字検定」のようなシステムもイメージしていた。ちなみに漢字検定は公式な資格ではない。「知事選出馬」の打診は、そういう点からも筆者が受ける絶好のタイミングだった。これが無ければ受けたかどうか…。

日時: 2013.09.18|

連載No.50 「空気」の研究 2013/0917

 今日の日本は「国民国家」となってから100年以上を経過し、国民という概念は既に一般化している。別に体育で仮想敵と戦う訓練を通して「ナショナリズム」を植え付ける必要などない。第二次世界大戦後、国際社会は原則的に不戦主義になっている。こんな中で、日本ではまだ「兵士の養成」を原理とした「体育」が義務教育に残ってしまっている。(今回の東京五輪開催に水を差すつもりはないが、そういうスポーツの基本的な原理が21世紀になっても教えられていない国で開催していいのだろうか?この機に早急に改善すべきだと思う。)そして、この矛盾が、学校教育の問題に留まらず、社会全体のリスクを増す「人災」が起きる基礎になっている。これが私の分析であり、「人材教育」を政策の核に入れた根拠だ。

 古くは山本七平が名著「空気の研究」で指摘した抑圧的な「空気」の問題でもある。第二次世界大戦後、極東軍事裁判で連合軍の検事が戦犯の調書を取ろうとした。すると全員が異口同音に、「私個人としては米国と一戦交えるコトに反対であった」と回答した。では、なぜ開戦に至ったのか?やはり、全員が「しかしながら当時の空気が・・・」と答えたのだ。まさに「空気」という「同調への抑圧」が存在していたのだ。日本人ならこのやり取りには苦笑いしながらも理解はできるだろう。今でも別に珍しくもない光景だ。しかし、当時の連合国の検事はほぼ全員が西欧文化で育った人だったから、「空気」が「大臣」や「総理」や、さらには「天皇」をも越えた存在であることに衝撃を受けた。「主権者は空気か?」と。

 もう一つ、笑えない事実がある。戦争末期に、連合国側が「ポツダム宣言の受諾」を迫った際、米内内閣は、「国体の護持」を条件に受諾すると伝えた。この「国体」は、組織でも無ければ、まして天皇制のことでもない。連合国側は「国体」の意味が分からないまま徒に時が流れ、ついにエノラゲイによって広島に人類初の原爆が投下された。その報を聞いた米内光政は。親しい部下の前で「良かった。これでやっと降伏というコトが討議できる」と、思わず正直に心情を吐露したらしい。本当だとしたら、ヒドイ話ではないか。が、日本人なら「どうも本当に違いない」と思うだろう。(アメリカ人なら「クレイジー!」だと思うに違いない。)

 これらのエピソードは、「人災」に共通する問題点を示している。「人災」とは、非常時における「リーダーシップの欠如」から起きる、という点だ。これを解消するには、スポーツを通じて「スポーツマンシップ」を学ばせ、「リーダーシップ」を全員に習得させるしかない。「リーダーシップ」はリーダーだけが理解していればいいものではない。リーダーシップはフォロワー達によって決まるからだ。リーダー以外のメンバーが「リーダーシップ」を理解しない限り、「リーダーシップ」は発揮できない。「メンバーによる足の引っ張り合い」でつぶされるリーダーが、我が国には何と多いことか!これがリーダーシップ教育の不在から来ているのは明らかだ。「スポーツマンシップの普及」とは、学校の「スポーツ教育」を通して、「覚醒」した人材を育成し、社会に供給しようという試みに他ならない。

 

日時: 2013.09.17|