連載「僕の知事選、奮闘記」 〜敗軍の将、兵を語る〜

連載No24 経済産業研究所(RIETI)に入る 2013/0816

 スポナビをヤフーに譲渡して、職も収入も失ったが、身軽になり、さてこれから何を?と考えていた矢先、さる友人から「経済産業研究所(RIETI)の青木所長と会いませんか?」と声がかかった。ヒマはいくらでも遭ったし、当面は「色々な人と会う」ことが仕事だと考えていた。青木先生と言えば、日本を代表する経済学者で、しかも文章の美味さには定評がある。こちらからお願いしても会いたい方の一人だった。

 RIETIは経済産業省の外郭のシンクタンクだ。経産省と同じ建物の中にある。お尋ねしたところ、「あなたはこれから何をしたいの?」と質問された。結局スポーツに戻ったが、電通時代とスポナビ時代を通じて、「日本のスポーツ産業の課題」が見えてきた。一言で言えば、「ビジネス化が未成熟」なのだ。それは、我が国で長く「体育=スポーツ」と誤解されていたコトに起因する。

 体育は基本的に学校の教育カリキュラムだから、。ビジネス化には馴染まない。また、日本のスポーツ界で長く信奉されていた「アマチュアリズム」は。「ビジネス化」を否定するものだ。ところが、私がスポーツ部門に配属された84年のロス五輪で、「五輪の事業化」が開始された。スポーツは立派なビジネスになり得ることを、アマチュアの総本山である五輪で証明したのだ。(五輪への出場資格としての「アマチュア規定」は、既に74年にはIOC憲章から削除されていた。)そして「スポーツマーケティング」なる言葉が一般的になっていった。(私が「スポーツマーケティング」という本を上梓したのは、Jリーグが開始された翌年の94年。恐らく世界初の「スポーツマーケティング」本だ。)

 日本のスポーツビジネスを進めるためには、「人材育成」と「ノウハウの形式知化」が不可欠だ。また、「市場の確立と発展」を図るためには、「スポーツ産業」の定義と、「市場規模の測定」が必要だ。「これらをやりたい」と考えている、と言ったら「じゃ、うちでやりなさい」。こうして、RIETIの上級フェローとして研究所への入所が決まった。

 RIETIには1年半お世話になった。その間の最大の成果は「Jリーグのマネジメント」(東洋経済新報社)の上梓であろう。これは前述した、「ノウハウの形式知化」の一環だ。88年に「プロサッカーリーグ創立」に向けた動きが開始され、93年にそれが実現するまでの作業経緯を整理した。「Jリーグという制度設計」は、将に「ビジネスの戦略的な制度設計」のお手本のようなプロジェクトだった。これに加担したライバルの博報堂も含めた動きを、電通のサッカー担当だった私は指をくわえ、観客席から眺めているしかなかった。「本来は、自分がプレーヤーとしてあの場にいるべきだった」という忸怩たる思いがあった。この間の事情は別途話す機会もあるだろうが、今はやめておく。問題は、成功にせよ、失敗にせよ、日本人は「過ぎたことを振り返るコトを嫌う」点にある。経験を形式知化することが、圧倒的にアメリカに劣る。だからMBAを取得するために、多くの日本人がアメリカに留学する。「振り返る」コトは、「責任の所在を明らかにする」コトにつながる。曖昧を愛する我が国民が振り返らない理由がこれだ。

 これは見方を変えると、実にもったいない。人は経験から学ぶのが一番効率的で効果的だからだ。ただし、「学び方」がある。経験をまずは「構造化」するところから始めるべきだ。「構造」とは「要素」と「「(要素間の)関係」のことだ。「構造分析」すると、「構造的」な要素と「非構造的」な要素に分けることができる。構造的なものを学ぶと、その学びには汎用性がある。つまり形式知化された「使える」ノウハウになる。「Jリーグのマネジメント」は、「Jリーグの制度設計」を徹底的に構造分析した。そして、「ビジネス戦略」と「制度設計」の構造を明らかにして、「リーグ創立の成功」要因と、その因果関係を整理した。足かけ5年の「制度設計作業」における「会議の議事録」を預かり、資料を整理し、構造的な整理を行った。議事録を読むのに半年ほどかけただろうか?珍しく、根気が続いたのも、前述した「忸怩たる思い」に支えられたのだと思う。

RIETIでの研究成果を本にまとめたのが「Jリーグのマネジメント」だ。(この本は、編集担当者の予想を裏切って第7版まで増刷りとなった。と言っても、2万部にも達していないので、ベストセラーとは言いがたいが、ギョーカイの常識ハズレであったことは間違いない。本の雑誌では、この年の「サッカー本ベスト1」と評価された。家門の誉れだ。

 

日時: 2013.08.16|

連載No23  スポナビ興亡の顛末 2013/0815

 2000年のシドニー五輪に間に合うように、サイト立ち上げの作業は突貫工事だった。1999年の年末のある日、副社長の本間君から、「広瀬さん、国際オリンピック委員会のHPに、ネット・メディアの取材ID申請のことが出てますよ」という情報がもたらされた。「コレは一大事!」である。94年のWカップアメリカ大会と96年のアトランタ五輪で、国際スポーツのIT化が進み、ネットメディアに取材許可証が出るのは時間の問題だと思われていた。しかし、既存のマス・メディアからすると新規のネット・メディアの進出をおいそれと認めるわけには行かない。FIFAもIOCもタイミングを見計らっていた。その他の国際競技連盟は、五輪とWカップの動向を注視していた。それが20世紀末のスポーツイベントをめぐるネットメディアの一番大きな問題だった。

 99年の12月にIOCのHPにだけ、「ネット・メディアの取材申請を受け付ける」というコトが掲載されていた。記者発表も何もなく、「さりげなく、ひっそりと」という感じだった。「よし、申請しよう」と即断し、同時にFIFAの広報にいた知人に側面援護を依頼した。IOCの広報担当者に、「スポナビ」のコトを推薦しておくように頼んだのだ。国際スポーツ競技団体の現場スタッフは、常に横の連絡を取り合っているし、職も融通し合っているのだ。年明けの2000年の1月末に、「シドニー五輪の取材許可」が下りた。ネットメディアとして史上初の「取材が公認された」会社は世界で13社だった。あのHPの公告に気がついたのが、世界で13社だったのだろう。そして、日本からは、我がスポナビ1社だった。スポナビは、2000年のシドニー五輪の取材実績で、2002年のWカップ日韓大会でも公式取材IDを得られたが、これも計算のうちだった。

 シドニー五輪開幕に間に合い、開催期間中に目標のPVを達成し、出だしは順風満帆に見えたが、あとがいけなかった。あろうことか、スポナビを創設した2000年から、2002年の二年間、ネットバブルが崩壊し、我々が主たる収益源として見込んでいた「ネット広告」市場が完全に踊り場になっていた。それまでは毎年5割の伸び率だったのに!(神様は私に「ネット産業は君の居場所ではないよ」と言っていたに違いない。)結局、収益モデルの目論みが崩れ、2002年の夏(皮肉なことに日韓共催のWカップ終了の直後)、事業(サイトと社員)をヤフー・ジャパンに引き取ってもらい、会社を清算した。副社長の本間君がスポナビに残って、ヤフーへの事業譲渡を取り仕切ってくれ、社員を連れていってくれた。おかげで、身軽になれたのだ。今でも感謝している。スポナビというサイトは今も存在する。名付け親としては、いいネーミングだと自負している。

日時: 2013.08.15|

連載No22 スポーツナビゲーション(スポナビ)創立 2013/0814

 3ヶ月のDC滞在中、ほぼ毎週末にNYを訪れている時に、偶然にも大学の同級生とNYで遭遇した。商社マンの彼は投資部門にいて、「IT関連株で儲けてウハウハだ」と言う。「ああ、そうですか。そりゃ良かったね」だったのだが、投資した中に「Sports On-Line」という会社があり、スポーツ専門サイトとして世界初の上場を果たしていた。(恐らく、現在でもスポーツ専門サイトとしては唯一の上場会社だと思う。)数年で7倍という投資効率の良さだった。(現在では考えられないが、当時はこれくらいは普通だった。)その友人から、「このビジネス・モデルは日本でも行けると思う」と言われた。そして、「日本のスポーツビジネスに明るい」私に、会社設立の相談が持ち込まれた。

 日本帰国後も相談に乗っていた。サイトの基本コンセプトやコンテンツの構成は、ほぼ出来上がった。最後に残った問題は、CEOの人材だった。それまでのアドバイスを通じて、私の人物なり、能力が商社の投資部門の役員に評価されていたようだ。「広瀬さんにCEOを頼んだら?」と来た。こちらは、何しろスポーツビジネスから離れるための米国行きだったから、ビックリだ。と言いたいところだが、アドバイスを与えているうちに、この事業に魅力を感じ始めていた。

 90年のWカップイタリア大会から96年のアトランタ五輪にかけて、スポーツ界では急激なIT化が進んでいた。FIFAのIT化を進めた「En-Linea」の創業者のベネズエラ人の男から直接、その可能性を聞いていた。(その後の変化は、ほぼ彼の読み通りだった。年のせいか、名前が思い出せない。)94年大会のIT化作業にEDS 社を引き込んで、実際のプラットフォームを構築したのは彼だった。彼の紹介でダラスのEDS本社を見学させてもらった。ダラス空港についたらヘリで迎えに来てくれ、郊外にある本社を上空から観た時の衝撃は忘れられない。この時の訪問はTV 東京のカメラに収められ、放送された。98年のフランス大会でも彼はIT関係の作業を取り仕切ったはずだ。(ああ、名雨が出てこない!)彼はその後、自分の会社をFIFAに売却し、スペインのコスタ・デル・ソルで悠々自適に暮らしている。(売った会社は「FIFA-On-Line」になっている。)

 話を元に戻す。そういう情況で、「日本初のスポーツ専門サイトの創立者」になるという話は、実に魅力的で断れなかった。その申し出を受けると供に、電通退社を決意し、管理部門にいた同期に相談した。1999年の年末だった。

 すると、「その話、一ヶ月だけ待ってくれ」だった。当時、電通は上場の準備を進めており、幹事証券となる会社から、「海外部門の売り上げ比率の低さ」と「IT関連事業への投資の少なさ」を上場に際した問題点として指摘されていた。そして、2000年の年明けに、「電通ドットコム」というIT関連事業のベンチャー・キャピタル部門が創設された。「スポナビ」を「社内ベンチャー」の投資の第一号案件として欲しい、との要請が来た。商社側にその話をつなぐと、「電通と組めるのは願ってもない」と二つ返事だった。

 こうして、「スポーツ・ナビゲーション社」と、「スポーツ・ナビ」というサイトの創設が決まった。会社の登記は2000年の7月だった。この会社では、いくつかの日本初と世界初を実行した。例えば、世界初の、「サッカー国際Aマッチのネット生中継」。これは「日本代表vsフランス代表」戦で、フジテレビは時差の関係で早朝4時からのディレイだったが、スポナビは深夜の2時から完全の生中継を断行した。(これだけで1千万の赤字だった。)

 

日時: 2013.08.14|

連載No21. ITバブルのニューヨークに行く(1989年) 2013/0813

CIの本部はワシントンDCにある。言うまでもなく、この町は政治の町だ。はっきり言って、政治以外には何もない。ホテルの朝食、あるいはレストランのランチで、ダークスーツの男どもが、顔を寄せ合ってひそひそ話をしている光景がどこでも観られる。大抵彼らは壁際のテーブルにいる。(映画か!)政治に関係ない人にはオモシロくも何ともない。この町に3ヶ月滞在は、正直キツイ。以前、89年にNYで駅伝の国際大会を実施し、その際のマンハッタン滞在3ヶ月間は、ユニオン・スクエアのゼッケンドルフ・タワーに部屋を借りた。1Fにスーパーがあり、7階までは一つの建物だが、8Fからは4つのタワーに分かれて50階建くらい。4Fにプールがあり、7Fの屋上はテラス。「NY、恋物語」というTVドラマシリーズで、岸本加世子が鳥越マリを訪ねた際のロケでここのプールが使われた。(古い!)土曜のブランチはSweet Basil でジャズ演奏を楽しみながらハンバーガーだった。ブロードウェーやオフ・ブロードウェーにも通った。週末はニュージャージーでゴルフだが、グリーンが凍って途中で切り上げてことが何回かある。バブルガム・ブラザーズがアポロシアターのアマチュア・ナイトに挑戦したのにも立ち会った。木曜の夜は、アパートから徒歩三分のパラダイムシアターに行った。建築家の磯崎新氏によって、古い劇場がモダンなクラブに変っており、木曜はラテンナイトだった。サルサの強烈なビートに身を委ねるラテン系の人達を眺めているだけで元気になる。英語がほとんど通じなかったので、カタコトのスペイン語で話した。何と楽しかったことか!

そこで、週末の土曜の朝、AMトラックで片道3時間かけてNYに行き、一泊して日曜の夜にDCに帰る生活を始めた。ジュリアーニ市長に変ってから、NYは安全になっていた。42ndにディズニーストアができていた。安全な街の象徴だ。

当時のNYは、ITバブルの真っ最中で、とにかく景気が良かった。ダウンタウンのレストランに行くと、ウェイティングルームでドンペリニョンという高級シャンペンがダボダボと飲まれていた。若いエリート社員の多くは、サスペンダーをしていた。典型的な「バブル」の光景だった。ウオール街は「シリコン・アレー」と言われており、とにかくどんな銘柄でもIT関連でさえあれば株はあがった。(カリフォルニアのスタンフォード大学周辺で、多数のITのベンチャー企業が生まれ、この辺りは「シリコン・バレー」と呼ばれていた。)タクシーの運転手に、「お客さん、東京からかい?オレはパキスタンからの移民さ。」ターバンを巻いていたからムスリムであろう。「ところで、オレの資産がいくらか分かる?」「(知るわけがないだろう!)」「実はワン・ミリオンあるんだ。とにかくITの株を買っておけばあがるから、お客さんも買っておきな。アドバイスにチップは不要だよ」だと!そんなオカシな時代だった。

日時: 2013.08.13|

連載No20. CI(Conservation International) 2013/0812

CIにインターンシップ引き受けを快諾してもらったので、次は電通社内の説得。幸い電通には海外留学制度があった。TOEICで一定以上の成績を取って、「留学の目的」をプレゼンテーションし、認められれば3ヶ月から半年、海外留学ができるという社員向けの自己啓発制度だ。(TOEICの過去問題を読んだ結果、「前置詞」「主語の人称」「時制」の3つがポイントであることを発見した。結果として試験では820点をとることができた。)21世紀にはあらゆる企業が「環境対応」せざるを得なくなる。クライアントの会社でトップになる人材は、一旦、環境問題の責任者となっている。電通も「クライアントの環境対応」に対応すべき時が来る、というプレゼンテーションをし、役員の説得に成功した。留学は99年の3月から3ヶ月間と決まった。

CIで私を引き受けてくれた部署は、「ビジネス部門」であり、そこの部長が前出のグレンだった。頭の切れる男だった。(CIを去る前の最後のミッションは、フィリピンの熱帯雨林の現状視察だった。「一緒に行こう」と私を誘ったのがグレンだった。視察中に小さなボートで沖合から熱帯雨林に入ろうとしたら、突然の嵐に教われて、危うく難破しかけたことがあった。)

CIは当時、インテルの共同創業者で「ムーアの法則」で名高いゴードン・ムーアが、年700万ドルを5年間、総計3500万ドルの寄付を決めたばかりだった。また、時のクリントン政権に、ここのスタッフの一人が「環境問題」の専門家としヘッドハントされたりしていて、ノリにノッテいた観がある。

当時、CIが行っていた事業を2つほど紹介しよう。彼らは「生物多様性」の維持を第一の目的にしていたが、そのために一番重用視していたのが「熱帯雨林」の保全だった。欧米の企業で早くから環境問題に積極的に関与していたのが、ベンツ社だった。ベンツはクルマのヘッドレストの中を化学繊維やスポンジを使わずにヤシの繊維を使用していた。(「メルセデス・ベンツに乗るということ」金谷年展著、参照。)自然の素材を使うことは自動車利用者にも良いが、同時に開発国にビジネスと雇用を産む。CIは熱帯雨林に生息するある植物の種の皮を除去して磨くと真っ白で固いプラスチックのようになることを発見し、貝の替わりにボタンとして利用するようにアルマーニ社に提案して採用された。熱帯雨林の無軌道な伐採は、地球環境を損ねる。それが分かっているのに止められないのは、経済的な原因による。再生可能な仕組みで現地に雇用を産むことができれば、無軌道な伐採は止められる。

CIは、開発途上国の環境問題を解決するために、金融的なアプローチでの解決策も考案し、実行してていた。矢その良い例が「環境スワップ」という仕組み。途上国が返せなくなった債務を債権国から10分の一くらいで買う。貸した方は、10分の1でも「0」よりはマシだ。その債権を当該国に半額で売る。国にとって債務の半分は免除になり、しかも、その代金はお金ではなく国が持っている現物にした。例えば、国内の熱帯雨林の伐採の権利などで支払ってもらう。取得した権利を使って、CIは先ほど紹介したようなやり方で、環境負荷が低く、持続可能な雇用を産む事業を開始する、という訳だ。落語で言う「三方一両損」みたいな考え方で、実際的だ。こういう解決案を提案し実践するには、その分野の専門家が必要だ。実際、CIには世界中の様々な専門家が集まっていた。無論、金融の専門家もいた。環境スワップはフランス人で元金融関係で働いていた女性スタッフが考案した仕組みだった。

CIは「環境NGO」界ではエリート集団と言われ、各国の政府にもアドバイスしている。ビジネス的な処理に卓越している集団だ。当然、アメリカ政府との関係も良い。実はクリントン政権の大統領補佐官はCIのアジア・パシフィック担当部長の実兄だった。CIの紹介で、環境問題の政府関係者にもあった。環境省(EPA)には完璧な日本語をしゃべる白人がいて、「日本からは本当にたくさんの人が僕を訪ねてくるけど、自分の意見を明確に言ったのは、貴方が初めてだ」と言われた。私は当時から既に「水素エネルギー社会」の到来と、「燃料電池」の可能性を信じていた。(これが今回の「メタンハイドレード」開発による新エネルギー産業の開発と確立、という政策につながっている。)

日時: 2013.08.12|